sons and daughters -blog-

2008-06.10 Tue「誰もあかん」ねん[世の中]

Time[07:37] Comment[2] Trackback[0]
犯行後に言った「誰でもよかった」っていう言葉。


この「よかった」とは

何がどう「よい」のか?

何が何に対して「よかった」ことになるのか?


死刑になりたいんやったら、

自らで自らを死刑にしたらいいんちゃうのん。


俺は自殺には反対やけど

こんなん勝手に自殺してくれた方がマシ。


拳銃にびびってナイフを捨てるなんて、

ほんまにこいつ死刑になりたいんかな。


自分が世の中で小さすぎる存在であることに

耐えられへんくなったんやろう。


死にたいくせに

死ぬのがめちゃめちゃ怖かったんやろう。


でも、「誰もあかん」ねん。

アホでもわかるやろ。
  

2008-01.21 Mon人の気持ちになって[世の中]

Time[23:36] Comment[0] Trackback[0]
玉置浩二の歌で、こんな歌詞がある。

どんな時でも どんなことにでも

人の気持ちになって この心が痛むなら

むだなことだって 言われたって

かまわないから


人の気持ちになって考えることは、本当に重要なこと。自分自身、それができているかはわからないが、それが大切だってことは分かる。世の中には、同じようにそれが分かる人もたくさんいるだろう。しかしその反面、分かっている振りをして、この考えが明らかに分かっていない人もいる。程度に大小はあるが、いままでに私が出会った中ににもそのような類の人物は存在する。小さい行動でも、最終的に自分の利益や地位、評判になると思えることしか行わない。一見、人のためにしているようなことでも、実は自分にとってオイシイと思えることだからやっている。そんな裏側がバレバレな人を見ていると、本当につまらないと感じる。その程度がたとえ小であっても、それは醜い。

今日、昨年に放送された「FNS27時間テレビ」で、番組制作上の倫理違反があったとする意見書が放送倫理・番組向上機構からフジテレビに渡された。

放送されたのは、新潟中越地震の被災者にリンゴを送り続けている東北地方の女性に江原啓之氏が訪ねるというドッキリ企画。彼女は美容院を経営しながら、亡くなった父親から受け継いだりんご園を経営していた。しかし、新潟で地震が起こって以来、彼女はりんご園の経営をやめ、被災地などに無償でリンゴ送るようになった。放送では、その無償提供が原因で費用がふくらみ、本業の美容院の経営も厳しい状況になっているという内容だった。そこに江原氏がドッキリで訪れ、亡き父のメッセージとして「お前は間違っている。リンゴを送る前に、まず本業である美容院をしっかりやれ。」という意味の言葉を投げかけたのである。

このような内容の企画はまあ普通にあり得るものなのだが、問題は、事実と違っていたこと。彼女の美容院は経営難でも何でもなく、彼女は「リンゴを送ること」と「美容院の経営」のバランスには何も悩んでいなかったという。それなのに、江原氏から「間違っている」というような言葉を“父からの言葉”として受けたので、彼女は大きなショックを受けた。良かれと思って行っていたボランティアを、天国の父が反対するという事実。これは、天国の父からのメッセージを押しつけるべく、番組が都合のよい状況を勝手に作り出したと言える。視聴率欲しさに細工をし、何の罪もない善人を傷つけたのである。

テレビ局がこのような“ヤラせ”を行うことはもはや驚きでも何でもないが、問題は何の罪もない善人を傷つけたこと。メディアは真実を伝えるのが仕事。ジャーナリズム的に言えば、良き事実には賞賛し、悪事を批判すべきである代表的な存在。視聴率=広告費=自社、それを最優先し、人の気持ちになって考えることができないテレビ局なんて、自己中心的で何よりも価値のない存在である。

自分の利益を優先するよりも、心から人の気持ちになって行動する方が、回り回ってよっぽど自分の利益になる。なのに、なぜそれがわからないのか。そんな行動なんて、みんなすぐ気づくものである。
  

2007-08.23 Thu路上駐輪改善化計画[世の中]

Time[22:18] Comment[2] Trackback[0]
日本では1.7人に1人が保有しているとされている自転車。世界でもトップクラスの保有率だ。そして地球温暖化が叫ばれている現在、自転車は排出ガスが発生しないクリーンな移動手段として世界的に注目されている。この状況を考えると、もちろんきちんとした駐輪場に自転車を止めることがベストなのだが、路上駐輪もある程度仕方のない状況であると言わざるを得ない。

しかし、しかしである。路上駐輪の際に発生するストレスに関しては、昔からほとんど改善がみられない。現実を受け止め、路上駐輪を前提とした自転車社会の創造をつくりだそうとしてもよいでのはないだろうか。そこでいま、路上駐輪に関する2つの提言を唱えよう。路上駐輪そのものに問題があると言われればそれまでなのだが。

1)壁に対してナナメ45°に止めろ!
基本的にこの社会では、自転車は壁に対してほぼ直角に近い角度で止めている。言ってみれば、自転車が完全に壁の方を向いてしまっているのだ。警備員のオッサンもよかれと思ってか、路上駐輪しているチャリンコをきれいに直角に整頓している。しかも、自転車と自転車がほぼ密接した状態。この止め方だと、確かにビジュアルはきれいに見える。しかし、これでは自転車を出すときにとてつもないストレスを感じるのだ。

自転車のカギは前輪についているタイプが多く、直角に密接された駐輪状態であれば、カギ穴にカギを差し込むには身体をかなり前に傾けないといけない。無理な状態でカギを入れるので、ミスする確率も高くなる。もしそれをミスし、カギを落としてしまったときなんて最悪だ。前輪付近に落ちたカギを拾いたくとも、自転車同士が密接した状態で取りにくいったりゃありゃしない。ストレスは急激に上昇する。カゴも遠く、荷物をカゴに入れる行為だけでも体力を使う。ストレスはもう限界。

そこでだ。自転車を路上駐輪させるとき、壁に対して約45°くらいナナメにした状態で止めれば、自分から前輪までの距離が近い。カギも入れやすく、荷物もカゴに入れやすい。多少、止められる自転車の総数は少なくなってしまうかもしれないが、それは我慢してもらうとしよう。このナナメ45°の方法を実践すれば、ある程度密接させた状態でもストレスを感じず自転車を出す準備を行うことができる。どうでしょう。素晴らしい案ではないか。

2)ハンドル、ペダルを折りたためるようにしろ!
上記1)のようにナナメに止めたとしても、自転車を出すときに隣の自転車に引っかかり、出しにくい場合が多々ある。これはかなり冷静に対処しないと、どんどん「引っかかりレベル」が増していくのだが、この状況で頭に血が上らないわけがない。力技に持って行こうとすると隣の自転車まで一緒についてきて、バランスを崩し自転車が倒れ出すと指が挟まれたりしてケガをする。引っかかる部分の多くはハンドルもしくはペダル。タテ長スタイルの自転車のなかで、左右に出っ張っているのはこの2つの部分だけ。密接して止めると、どうしてもここが隣と引っかかってしまう。

そこでだ。出すときにうっとおしいハンドルとペダルを、どうにかして折りたためるようにできれば、出すときに隣の自転車に引っかからず、スムーズに取り出すことができる。ストレスが溜まらない、快適なチャリンコライフになるのではないか。自転車製造業のオッサンどもよ、もう路上駐輪を前提にチャリンコの形状を考えても良いじゃないか。


・・・以上の2つを実践すると、日本全体のストレスはチリも積もってかなりの改善が考えられる。自転車のストレスは、気付かないうちに溜まっているもの。敢えて意識してみると、かなりムカつく乗り物である。しかし、上記のような改善を行うだけで、かなり快適な乗り物になる。しょーもないことではない。大きな大きな問題なのだ。
  

2007-07.07 Sat自然治癒力の神秘[世の中]

Time[18:17] Comment[4] Trackback[0]
先日、ipodが急に動かなくなった。「カチッ、カチッ」という音とともに、画面にはイラストで泣き顔のipodが表示された。とりあえずその日は放っておき、アップルストアに向かうタイミングを数日間うかがっていたのだが、ある日、そのipodが急に動き出した。理由はよくわからないが、ipodは再び私の生活に音楽のある生活を与えはじめた。これはどう考えても偶然の出来事なのだろうが、その時はまるでipodに自然治癒力が働いたような気がして、なんとも不思議な気持ちになった。

思えば、自然治癒力というものは素晴らしいものだ。ある程度のケガや病気なら、何もしなくても治してくれる。例えばそれが重い病気であっても、自然治癒力と現代医学を組み合わせれば、良くなることも治ることもあり得る。こんな素晴らしい機能を、人間は当たり前のように持つ。機械やモノにはない、生きているからこそ持ち得る神秘的な機能である。

私は昔から、そんな自然治癒力の存在を感じることが好きだった。ケガをしたり風邪を引いたりすると、基本的にはそのことにヘコむのだが、それが治り始めると私は自然治癒力の大きな存在を感じる。特別な快感のようなものではないが、心の隅っこで、生きていることへの安心感のようなものを感じるのだ。だから私はたまに「人間は常に少々のケガをしているくらいがちょうど良い」などとマゾヒスト的な発言をすることがある。もちろん、その気は全くないのだが。

この自然治癒力は、身体的な部分だけに適応され、それ以外のことには適応されない。例えば精神的なこと。辛いことや傷つくこと、悲しいことが起きても、何もしなければ乗り越えられない。よく「時間が解決してくれる」などという慰めのセリフがあるが、それは実のところ、自然に治癒しているわけではない。その人が心の中で物事を整理し、乗り越えようと努力した結果の治癒であり、自然治癒力のような自分の中にある他人のような力ではない。あくまでもその人自身の力。それこそ、自然治癒力より神秘的なのかもしれない。

本日のニュースで、秋田市で05年9月に小学3年の女児が乗用車にはねられて死亡した事故で、秋田地裁は事故を目撃した兄(当時小学6年)にも慰謝料200万円を支払うよう運転していた元会社員の男性に命じたとあった。裁判官は「兄は自分が妹を止めていれば事故が起こらなかったと自責の念に駆られている。12歳の少年に苦しみを与えた結果は重大」とコメントしている。

もちろん、お金で精神的な治癒を行うことができるわけではない。被害者の兄は、これから長い時間をかけて心を治癒させていかなければならない。乗り越えるべき壁の高さは想像を絶する。もし自然治癒力が精神的な部分にも適応されるのであれば、このような状況に置かれた人も幸せになれるのに。そんなことを感じた今日このごろ。もちろん、それは悲しみや苦しみを単純に忘れるという意味ではなく、あくまで乗り越えるという意味で。

悲しみや苦しみを乗り越えた人は、それらをあまり感じてこなかった人よりも強い。まるで、自然治癒力で骨折が完治したとき、骨折する前よりも頑丈な骨になっているかのように。
  

2007-05.30 Wedそんなことないっしょ。[世の中]

Time[08:06] Comment[4] Trackback[0]
ZARDの坂井泉水さんが亡くなって、農林水産大臣の松岡さんも亡くなって、今日もなんか緑ナントカ機構のオッサンが亡くなって、世の中は“死”のニュースばっか。親が子を殺したり、子が親を殺したり、そんなんばっか。「あの、高校生が親を殺したニュース、知ってる?」とか言っても、そんなニュースがいくつもあってどれがどれなのかがわからん。この年になると、リアルに考えられる未来がけっこう先にまで広がっていて、自分の子どもが産まれたり成長したり、親類が寿命で死んじゃったりすることが、昔に比べるとリアルに考えられるようになった。だから、死ぬっていう悲しさとか長生きするっていう意味もある程度リアルに理解できたりもする。

坂井泉水さんが死んだ理由はまだわからないみたいだが、このニュースを聞いて自然に思ったことがあって、そのことに自分でびっくりした。それは、自殺か事故かわからない坂井さんの死に対して「自殺なんて・・・」って思う一方で「事故よりは自殺の方がまだマシ」って思う自分もいたこと。今まで、自殺なんかアホらしい、ありえない、ってずっと思ってきた自分が、自然にそんなことを思っていたことにびっくりした。なんでそんなことを思ったかを考えてみると、あんなに才能があって周りからの支持も高い人が、不慮の事故で死んでしまうのはあまりにももったいないって思ったから。もし事故に遭っていなかったら、これからもすばらしい作品を提供してくれたのかもしれない。そう思うと、事故死ではファンもやりきれないんじゃないかなって思った。

それに比べると、彼女自身で自らの人生を終わらせる方がまだ諦めがつくんじゃないかなって感じた。彼女の選んだ道だから仕方がないのかも。そう思うと、ガンとの闘いを続けた彼女に「お疲れさま」とでも心の中で声をかけることもできるような気がする。・・・ってまあ、そんなことを自然に考えてた自分がいて、何か「自分の考え方も変わったのかなあ」みたいに思った。もちろん自殺はアカンって思うし、絶対にしてほしくないこと。その考えは今までと変わらないのだが、坂井さんがすで死んでしまった今この状況で、自殺か事故かわからない彼女に対してだからそんなことを思った。それが良いか悪いかはよくわからんけど。

そんなニュースが流れる中、自分の周囲では幸せなことや悲しいこと、楽しいこと、腹が立つこととかがいつも通りにいっぱい存在している。世の中に巻き起こっている生死のニュースに比べたら、もちろん大ごとではないようなことばかり。でも、ニュースに比べるとはるかに自分に関係のある身近なことなので、そのたびに感情が起伏する。なんか、何が重要で何が重要なのか、考え過ぎたらよくわからんようになるわ。

ニュースって、見過ぎるとあまり良くないものなのかもしれない。ほとんどがマイナス情報。誇張して報道したり、時にはウソだったりすることもある。ネット上の掲示板なんてウソとか中傷とか差別とかが溢れていて、人間にとって負の影響を与える空気ばかり。そんなことに時間をかけるのであれば、キレイごとを伝えてくれる映画とか音楽を楽しむ方がよっぽどいいと思うことがある。

人の心の中って、たまに洗ってやらないと落ちない汚れが増えてしまうと思う。それを怠ると、幸せなことを素直に祝ったり、理不尽なことに腹を立てたり、そんなことがあまりできない人間になってしまう。そんな人って少なからず世の中にいるんちゃうかな。「キレイごと」ってよく悪い意味で使われるけど、決してそんなことないっしょ。
  

2007-05.28 Mon「求人の年齢制限」を禁止するらしいのだが・・・。[世の中]

Time[18:51] Comment[2] Trackback[0]
公明党の遠山清彦参院議員が今月23日、静岡市内で開催された街頭演説会に出席した。彼が一貫して取り組んできた「求人の年齢制限の撤廃」について、「参院予算委員会で柳沢厚労相が『来年から原則的に撤廃する』と答弁した」と紹介し、「今後も国民のニーズを政策として実現していく」と力説した。

この「求人の年齢制限の撤廃」とは、企業が労働者を募集・採用する際に年齢による制限を原則として禁止するというもので、自民党が中心となって検討している。現在は「できるだけ年齢制限を設けないように」という程度の努力目標だった。そもそもこれが検討されはじめたのは、安倍首相の掲げる「再チャレンジ」促進策がきっかけ。年齢差別による雇用問題をなくし、中高年の再就職を促すのが狙いだ。

現在の求人広告は多くに「募集年齢」が表記されており、そのほとんどが「30歳まで」「35歳以下」など、中高年に入り込む余地のないものである。ハローワークでも半数以上の求人に「募集年齢」が記載されており、現在の“努力目標”はほとんど守られていない。考えてみるとそれも無理はない。そもそも年齢というものは、企業の戦力を考えるうえでは重要な要素。定年までの年数や賃金、能力の伸びしろなどを考えると、採用時に年齢を無視することはできないのだろう。

もしこの「求人の年齢制限」を禁止したとしても、企業の採用担当が年齢を無視して選考を行うことには繋がらない。結局は書類選考や面接で不採用を通知することになり、現状と何も変わらない。むしろムダな応募、ムダな面接が増えることになり、求職者にとっても企業にとってもマイナス要素が増えるだけになる。

このような法案で、自民党の「再チャレンジ」促進策が前に進むのだろうか。このままでは逃げ道がいくらでもあるただの“ザル法”になってしまう。それよりも「全従業員に占める○歳以上の高齢者の割合を▲%以上雇用する」など、より踏み込んだ法案でないと意味がない。経済界からの反発を恐れているのか、どうも安倍首相の雇用政策は中途半端なものが多い。思えば、ホワイトカラー・エグゼンプションもそうだった。思い切った政策には反発がつきもの、と割り切って推し進めることはできないのか。あまり意味のない政策ではあるが、この「求人の年齢制限の撤廃」までもが頓挫してしまうことになれば、もう安倍首相を笑うしかない。