2005-06.28 Tue私的音楽特選3(フォークソング編)[音楽]
Time[23:35] Comment[4] Trackback[1]
制服(吉田拓郎/1973年)
集団就職で東京に出てきた少女たちを見かけ、駅のホームから遠く眺めている情景を唄った名曲。都会というものは時に夢を抱かせ、時に夢を壊す。そんな都会の現実から、少女たちの将来をあくまで現実的に思い浮かべています。
集団就職は今では遠い昔のことですが、この曲を聴くと、そんな少女たちの人生を痛いくらい感じることができます。田舎で生まれ田舎で育ち、希望に満ちた純粋な少女を、都会という現実が良かれ悪かれ大人へと変えていく。切ない少女の人生が目に浮かんできます。「きれいに暮してゆける土地は どこか他のところのような気もするよ」 本当にそう思う。都会のしがらみや“建前と本音”を学び経験することは、純粋な少女の心を消し去ってしまう可能性があります。そう思うと、都会に出てこなかった方がある意味本当の幸せが手に入るのかも知れません。しかし少女たちは、都会を夢見て上京する。そんな光景を見てジレンマのようなものを感じたのでしょうか。
高校時代、僕はこの曲に感銘を受けてテープがすり切れるほど聞いていました。今は集団就職などなく、現実社会を伝えるメディアが多数存在します。少女たちは「都会の現実」をある程度認識でき、この曲のような状況になることは少なくなりました。それも良かれ悪かれですけど。
浅草キッド(ビートたけし/1986年)
ツービートの下積み時代を、ビートたけし自身が作詞作曲して唄った名曲。数々の芸人・俳優を生んだ「浅草松竹演芸場」が舞台で、貧乏暮らしの中で芸に励む彼の様子が窺えます。
「夢を託した百円を 投げて真面目に拝んでる」
売れたい一心でなけなしの百円を賽銭箱に入れる。同じような芸人が今まで数え切れないほど存在し、その多くが夢叶わずに散っていったのでしょう。そんな切ない思いをこの曲は感じさせてくれます。ツービートに限らず、売れない芸人を支えるのは、歌詞にある「いつか売れると 信じてた」 というひと言。ストリップ小屋で細々と働いていた少年が、今では「世界の北野」と呼ばれるまでにのし上がった。今の北野武があるのは、この時代があったからと言っても過言ではないでしょう。
「夢は捨てたと言わないで 他に道なき二人なのに」
カネもなく、客も来ない。いっそ辞めてしまいたいが、辞めてしまうともう何も残らない。恐ろしい世界に飛び込んでしまったという思いがそこにあったのでしょう。天職なんてのは、一種の麻薬みたいなもので、どんなに苦しくても辞められないものだと思います。ビートたけしにとって、「お笑い」とは天職。映画監督として脚光を浴びている今でさえ、「俺はお笑い芸人だ」と言っています。
この唄は芸人が創ったとは思えないほど素晴らしい曲。歌詞もメロディも、何とも言えない哀愁が感じられます。彼の才能が素晴らしいことを証明しているのではないでしょうか。そして意外と声も魅力的。モロに“ビートたけしの声”っていう感じですが、ヘタウマな感じが曲と良く合っています。
集団就職で東京に出てきた少女たちを見かけ、駅のホームから遠く眺めている情景を唄った名曲。都会というものは時に夢を抱かせ、時に夢を壊す。そんな都会の現実から、少女たちの将来をあくまで現実的に思い浮かべています。
集団就職は今では遠い昔のことですが、この曲を聴くと、そんな少女たちの人生を痛いくらい感じることができます。田舎で生まれ田舎で育ち、希望に満ちた純粋な少女を、都会という現実が良かれ悪かれ大人へと変えていく。切ない少女の人生が目に浮かんできます。「きれいに暮してゆける土地は どこか他のところのような気もするよ」 本当にそう思う。都会のしがらみや“建前と本音”を学び経験することは、純粋な少女の心を消し去ってしまう可能性があります。そう思うと、都会に出てこなかった方がある意味本当の幸せが手に入るのかも知れません。しかし少女たちは、都会を夢見て上京する。そんな光景を見てジレンマのようなものを感じたのでしょうか。
高校時代、僕はこの曲に感銘を受けてテープがすり切れるほど聞いていました。今は集団就職などなく、現実社会を伝えるメディアが多数存在します。少女たちは「都会の現実」をある程度認識でき、この曲のような状況になることは少なくなりました。それも良かれ悪かれですけど。
浅草キッド(ビートたけし/1986年)
ツービートの下積み時代を、ビートたけし自身が作詞作曲して唄った名曲。数々の芸人・俳優を生んだ「浅草松竹演芸場」が舞台で、貧乏暮らしの中で芸に励む彼の様子が窺えます。
「夢を託した百円を 投げて真面目に拝んでる」
売れたい一心でなけなしの百円を賽銭箱に入れる。同じような芸人が今まで数え切れないほど存在し、その多くが夢叶わずに散っていったのでしょう。そんな切ない思いをこの曲は感じさせてくれます。ツービートに限らず、売れない芸人を支えるのは、歌詞にある「いつか売れると 信じてた」 というひと言。ストリップ小屋で細々と働いていた少年が、今では「世界の北野」と呼ばれるまでにのし上がった。今の北野武があるのは、この時代があったからと言っても過言ではないでしょう。
「夢は捨てたと言わないで 他に道なき二人なのに」
カネもなく、客も来ない。いっそ辞めてしまいたいが、辞めてしまうともう何も残らない。恐ろしい世界に飛び込んでしまったという思いがそこにあったのでしょう。天職なんてのは、一種の麻薬みたいなもので、どんなに苦しくても辞められないものだと思います。ビートたけしにとって、「お笑い」とは天職。映画監督として脚光を浴びている今でさえ、「俺はお笑い芸人だ」と言っています。
この唄は芸人が創ったとは思えないほど素晴らしい曲。歌詞もメロディも、何とも言えない哀愁が感じられます。彼の才能が素晴らしいことを証明しているのではないでしょうか。そして意外と声も魅力的。モロに“ビートたけしの声”っていう感じですが、ヘタウマな感じが曲と良く合っています。
2005-06.26 Sun見せてもいい○○○[世の中]
Time[20:34] Comment[3] Trackback[0]
梅雨入りしたというのに、すでに夏を思わせる陽気が続いている。街にはキャミソールなどで肌を露出した女性が歩き、男性は目のやり場に困る一方、ついついそこに目がいってしまう。その露出度は年々増しているようで、夏が来るたびその露出度に驚かされる。肌の露出だけでなく、最近は下着を敢えて見せるというファッションも登場。曰く、「見せてもいいブラ」、略して「見せブラ」らしい。敢えてブラジャーを見せることがオシャレというファッションなのだが、この「見せてもいい」とは一体誰が決めたのだろうか?
知り合いの女性数人に話を聞いたところ、「普通の下着にあるようなレースの部分がなく、あまりいやらしく見えない」から、“見せてもよい”のだそうだ。「いやらしい・いやらしくない」が基準の一つだとすると、男性からの目もある程度は意識しているように思える。しかし男性にしてみると、レースがあろうがなかろうが、ブラジャーを見せている時点である程度のいやらしさや色っぽさを感じてしまう。
もしこの「見せてもいい」という基準が、本人の意識だけの問題であるならば、世の中は“自由”に、そして“何でもアリ”になってしまう。
「おいお前、○○○が丸見えだぞ!」
「ああ、これは“見せ○○○”だから別に見えてもいいんだよ」
「そうか!じゃあいいや」
言ってみればこの○○○には何が入っても良いのである。本人が「見せてもいい」と思いさえすれば。そう考えると、例え猥褻物陳列罪で逮捕されても、「これは見せても良い×××なのでOKなんです」と警察に言えば済むことになる。かなり極端な例だが、理屈で考えるとそうなってしまう。
国際日本文化研究センター助教授の井上章一さんは、著書『パンツが見える。 羞恥心の現代史』(朝日選書)の中でこう書いている。「何が恥ずかしいかという羞恥心と、何に興奮するかという欲情は、時代によって変化する。つまり歴史的に形成される文化である」。羞恥心は文化であり、羞恥心は文化によって変化するもの。言い方を変えると、羞恥心は時代の変化に対応していかなければならないのだ。それは「下着を見る方」も、「下着を見られる方」も両方である。
「戦前の女性はパンツが見えても別に恥ずかしいとは感じなかった。女性がパンツが見えることを恥ずかしがり、男性がパンチラを喜ぶようになったのは1950年代後半くらいからである」。井上さんは著書でこのようにも書いている。何十年も前、多くの女性が和服を身につけていた時代、下着は日本に存在していなかった。女性たちは皆、ノーパンで和服を身につける。そしてふとしたはずみでチラリと見えてしまうのは、パンツなどではなかったのだ。「陰部を見られても、ある程度は仕方ない」、それが戦前の女性たちの感覚だったのではないか。そしてそれこそが、「文化」と呼ばれるものなのである。
「見せてもいい住所・電話番号」が、ふと気が付けば「見せてはいけない住所・電話番号」に変わっていた世の中。良く言えばそれも時代の変化であり、文化でもある。そしてそれにより、人々は自らのの意識も変えていかなければならないのだ。
知り合いの女性数人に話を聞いたところ、「普通の下着にあるようなレースの部分がなく、あまりいやらしく見えない」から、“見せてもよい”のだそうだ。「いやらしい・いやらしくない」が基準の一つだとすると、男性からの目もある程度は意識しているように思える。しかし男性にしてみると、レースがあろうがなかろうが、ブラジャーを見せている時点である程度のいやらしさや色っぽさを感じてしまう。
もしこの「見せてもいい」という基準が、本人の意識だけの問題であるならば、世の中は“自由”に、そして“何でもアリ”になってしまう。
「おいお前、○○○が丸見えだぞ!」
「ああ、これは“見せ○○○”だから別に見えてもいいんだよ」
「そうか!じゃあいいや」
言ってみればこの○○○には何が入っても良いのである。本人が「見せてもいい」と思いさえすれば。そう考えると、例え猥褻物陳列罪で逮捕されても、「これは見せても良い×××なのでOKなんです」と警察に言えば済むことになる。かなり極端な例だが、理屈で考えるとそうなってしまう。
国際日本文化研究センター助教授の井上章一さんは、著書『パンツが見える。 羞恥心の現代史』(朝日選書)の中でこう書いている。「何が恥ずかしいかという羞恥心と、何に興奮するかという欲情は、時代によって変化する。つまり歴史的に形成される文化である」。羞恥心は文化であり、羞恥心は文化によって変化するもの。言い方を変えると、羞恥心は時代の変化に対応していかなければならないのだ。それは「下着を見る方」も、「下着を見られる方」も両方である。
「戦前の女性はパンツが見えても別に恥ずかしいとは感じなかった。女性がパンツが見えることを恥ずかしがり、男性がパンチラを喜ぶようになったのは1950年代後半くらいからである」。井上さんは著書でこのようにも書いている。何十年も前、多くの女性が和服を身につけていた時代、下着は日本に存在していなかった。女性たちは皆、ノーパンで和服を身につける。そしてふとしたはずみでチラリと見えてしまうのは、パンツなどではなかったのだ。「陰部を見られても、ある程度は仕方ない」、それが戦前の女性たちの感覚だったのではないか。そしてそれこそが、「文化」と呼ばれるものなのである。
「見せてもいい住所・電話番号」が、ふと気が付けば「見せてはいけない住所・電話番号」に変わっていた世の中。良く言えばそれも時代の変化であり、文化でもある。そしてそれにより、人々は自らのの意識も変えていかなければならないのだ。
2005-06.20 Mon横着社会の行き着く先は[世の中]
Time[23:03] Comment[3] Trackback[0]
本日、会社から家に帰ると、時計は19時45分。テレビをつけると「関口宏の東京フレンドパーク2」がやっていた。晩メシを食べながらぼけーっと見ていると、場面は最後のダーツコーナーに。この回のゲストは萬田久子と大鶴義丹。二人がリクエストした景品を司会の関口宏が紹介していた。その景品の中に、こんなものがあった。最新のマッサージチェア。椅子に小さなマイクが付いていて、そのマイクに「もっともっと」と言うと叩き方が強くなり、「もっと上」と言うともみ玉が上がるという。“最先端の技術を駆使した代物”とのことだ。それをゲスト(どっちか忘れた)が「欲しい〜!」と言っていた。
この機能・・・・いるか!?
確かに、リモコンで操作するより声で操作した方がラク。その技術も凄いと思う。でもそんな機能を、単純に「便利」だと呼べるのだろうか?そんなマイクに頼らなくても、自分でボタンを押せば済む話。身体の不自由な人ならまだしも、健康な人がこれを必要とする理由が僕にはわからない。僕はこれを「便利」ではなく、「横着」以外の何ものでもないと思います。
近年、科学技術の発達のせいでこのような横着商品が激増しています。
良く言うと「お手軽」「省力化」。今までなら何の苦労もなく自力でやっていたことを、人間はどんどん科学の力に頼ろうとしています。上記以外の例で言うと、「ボタンを押すと扉が開く冷蔵庫」、「便座から立ち上がったら勝手に水洗が流れるトイレ」など。このような商品開発が、果たして消費者の真のニーズなのでしょうか?トイレの後、「流すのがめんどくさいなあ〜」なんて誰が思います?無くても誰も困らないそのような機能は、人間社会を便利にする機能ではなく、人間を横着にしてしまう過保護機能なのです。これは一般化している「ウォシュレット」や「動く歩道」などにも言えると思います。視点を変えると、そのような製品は「科学技術の誇示」のために造られた製品のように思えます。科学者や技術者が、自分の力を見せびらかしたいがために造ったような、言ってみれば自己満足製品。技術力を見せつけて人々の驚く顔が見たいのはよくわかります。でもそれが人間を弱くさせることを、技術者は理解しているのでしょうか。理解していても止められないのでしょうか。
そして何より僕が納得できないのが、それを買う消費者です。お年寄りや身体の不自由な人ならわかります。でも十分に健康な人がそのような商品を買うのは、ただの贅沢であり横着であるような気がしてなりません。
結局、人間は横着な生き物なんです。
なまじっか頭のよい生き物だから、どんどん生活を快適にしようとする。そしてある程度快適になったら、今度は重箱の隅をつつくように生活の細部を快適にしようとする。そして気が付けば横着な世の中に変貌し、何もかも機械にさせるような社会になっている。・・・とまあそんな感じでしょう。
近い未来、ロボットが仕事をしたり、食事を作ったり、犬の散歩をしたりするのでしょうか。
そしてその頃、人間はいったい何をしているのでしょうか。
まさか、「寝る・食う・遊ぶ」だけではあるまいな・・・。
この機能・・・・いるか!?
確かに、リモコンで操作するより声で操作した方がラク。その技術も凄いと思う。でもそんな機能を、単純に「便利」だと呼べるのだろうか?そんなマイクに頼らなくても、自分でボタンを押せば済む話。身体の不自由な人ならまだしも、健康な人がこれを必要とする理由が僕にはわからない。僕はこれを「便利」ではなく、「横着」以外の何ものでもないと思います。
近年、科学技術の発達のせいでこのような横着商品が激増しています。
良く言うと「お手軽」「省力化」。今までなら何の苦労もなく自力でやっていたことを、人間はどんどん科学の力に頼ろうとしています。上記以外の例で言うと、「ボタンを押すと扉が開く冷蔵庫」、「便座から立ち上がったら勝手に水洗が流れるトイレ」など。このような商品開発が、果たして消費者の真のニーズなのでしょうか?トイレの後、「流すのがめんどくさいなあ〜」なんて誰が思います?無くても誰も困らないそのような機能は、人間社会を便利にする機能ではなく、人間を横着にしてしまう過保護機能なのです。これは一般化している「ウォシュレット」や「動く歩道」などにも言えると思います。視点を変えると、そのような製品は「科学技術の誇示」のために造られた製品のように思えます。科学者や技術者が、自分の力を見せびらかしたいがために造ったような、言ってみれば自己満足製品。技術力を見せつけて人々の驚く顔が見たいのはよくわかります。でもそれが人間を弱くさせることを、技術者は理解しているのでしょうか。理解していても止められないのでしょうか。
そして何より僕が納得できないのが、それを買う消費者です。お年寄りや身体の不自由な人ならわかります。でも十分に健康な人がそのような商品を買うのは、ただの贅沢であり横着であるような気がしてなりません。
結局、人間は横着な生き物なんです。
なまじっか頭のよい生き物だから、どんどん生活を快適にしようとする。そしてある程度快適になったら、今度は重箱の隅をつつくように生活の細部を快適にしようとする。そして気が付けば横着な世の中に変貌し、何もかも機械にさせるような社会になっている。・・・とまあそんな感じでしょう。
近い未来、ロボットが仕事をしたり、食事を作ったり、犬の散歩をしたりするのでしょうか。
そしてその頃、人間はいったい何をしているのでしょうか。
まさか、「寝る・食う・遊ぶ」だけではあるまいな・・・。
2005-06.15 Wedジャパニーズ「最後の晩餐」[戯言]
Time[20:02] Comment[4] Trackback[0]
NASAから官邸に緊急連絡が入る。
明後日、長径約2キロの小惑星が地球に衝突するとのことだ。
人類の大半が死亡するのは間違いないらしく、地球滅亡の恐れすらあるらしい。
小惑星が迫っていることは以前から知っていたが、衝突の可能性は低いと聞いていた。
しかしここ数日で軌道が大幅に変わったそうだ。
私はすぐに状況を飲み込むことができず、数分間は他人事のように思えてしまった。
しかし総理大臣という立場上、無理にでも頭を整理し、各方面に連絡を入れた。
天皇陛下へももちろん連絡を入れる。
陛下は既に別ルートから状況をお知りになっており、
私は今後の対応についてのご相談をした。
陛下は「最期は我が日本がひとつになれるよう、国民全員で同じ夕食を食べましょう」
とお話しになり、さらにこう続けた。
「具体的に何を食べるのかは、総理大臣のあなたが各方面と相談して決めてください」
国民に発表するのは明日の朝。
それまでに「明日の夕食の献立」を考えなければならない。
今まで掲げてきた公約も、もう守る意味がなくなった。
総理大臣としての最後の仕事がまさか「明日の晩メシ」とは…。
こんなこと誰も予想しなかっただろう。
早速、私は「明日の晩メシ」を考える。
この際、農業や産業への影響は考えなくて良いだろう。なんせ、地球が滅亡するのだから。では何を基準に考えたらよいだろうか。日本人が好きな食べ物といえば、ラーメン、寿司、焼肉などと言われているが、最後の日に“中華そば”もどうかと思うし、魚介類がダメな人も多いと聞く。では焼肉がベターか。しかし考えてみると、明日死ぬと分かっている人にそんな重い料理がのどを通るだろうか?その視点で考えると、のどを通りやすい汁ものが良いだろう。陛下からのお達しということもあるので、和食であることも重要だ。まさか日本国民全員が、最期の日にインドカレーやナシゴレンを食べるなんてありえない。また、最期の日は家族全員で食事をすることになるだろうから、大勢で囲める料理であるべきことも忘れてはならない。好き嫌いも考慮して、様々な種類の食材を使う料理であることもポイントだ。
条件は多い。
整理するとこうなった。
(1)汁もの
(2)和食
(3)家族で囲める料理
(4)様々な種類の食べ物が入っている料理
答えは出た。
私は次の日、国民への演説に向かう。
深い悲しみに包まれた中、演説の最後に私は笑顔でこう話す。
「国民の皆さん、今日は愛する家族とすき焼きを食べましょう!
これが日本の最期の晩餐です!さようなら!」
明後日、長径約2キロの小惑星が地球に衝突するとのことだ。
人類の大半が死亡するのは間違いないらしく、地球滅亡の恐れすらあるらしい。
小惑星が迫っていることは以前から知っていたが、衝突の可能性は低いと聞いていた。
しかしここ数日で軌道が大幅に変わったそうだ。
私はすぐに状況を飲み込むことができず、数分間は他人事のように思えてしまった。
しかし総理大臣という立場上、無理にでも頭を整理し、各方面に連絡を入れた。
天皇陛下へももちろん連絡を入れる。
陛下は既に別ルートから状況をお知りになっており、
私は今後の対応についてのご相談をした。
陛下は「最期は我が日本がひとつになれるよう、国民全員で同じ夕食を食べましょう」
とお話しになり、さらにこう続けた。
「具体的に何を食べるのかは、総理大臣のあなたが各方面と相談して決めてください」
国民に発表するのは明日の朝。
それまでに「明日の夕食の献立」を考えなければならない。
今まで掲げてきた公約も、もう守る意味がなくなった。
総理大臣としての最後の仕事がまさか「明日の晩メシ」とは…。
こんなこと誰も予想しなかっただろう。
早速、私は「明日の晩メシ」を考える。
この際、農業や産業への影響は考えなくて良いだろう。なんせ、地球が滅亡するのだから。では何を基準に考えたらよいだろうか。日本人が好きな食べ物といえば、ラーメン、寿司、焼肉などと言われているが、最後の日に“中華そば”もどうかと思うし、魚介類がダメな人も多いと聞く。では焼肉がベターか。しかし考えてみると、明日死ぬと分かっている人にそんな重い料理がのどを通るだろうか?その視点で考えると、のどを通りやすい汁ものが良いだろう。陛下からのお達しということもあるので、和食であることも重要だ。まさか日本国民全員が、最期の日にインドカレーやナシゴレンを食べるなんてありえない。また、最期の日は家族全員で食事をすることになるだろうから、大勢で囲める料理であるべきことも忘れてはならない。好き嫌いも考慮して、様々な種類の食材を使う料理であることもポイントだ。
条件は多い。
整理するとこうなった。
(1)汁もの
(2)和食
(3)家族で囲める料理
(4)様々な種類の食べ物が入っている料理
答えは出た。
私は次の日、国民への演説に向かう。
深い悲しみに包まれた中、演説の最後に私は笑顔でこう話す。
「国民の皆さん、今日は愛する家族とすき焼きを食べましょう!
これが日本の最期の晩餐です!さようなら!」
2005-06.09 Thu勝手に映画批評4[映画]
Time[00:10] Comment[6] Trackback[39]
【真夜中の弥次さん喜多さん】 4点
何かなあ…イマイチ。
宮藤官九郎の作品はドラマ・映画を通じて初めて観たのですが、まず思ったのが「笑わせる場面がサブい」。彼ってこんなにサブい人なんでしょうか?一緒に観に行った人曰く、「他のクドカン作品はこんなにサブくない」とのことです。僕は彼の作品は初めてなので、完全に「クドカン=サブい」という式が成り立ってしまいました。最初のシーンで、バイクで一気に伊勢まで行くところがあるのですが、その下りがもうサブくてサブくて…。「うわ〜こりゃやばいな」と開始10分でまず思いました。おもしろかったのは荒川良々のシーンとおぎやはぎのネタだけ。終始ちょっと遊びすぎですね。やりたい笑いがどんどんエスカレートしていったのではないでしょうか。
あとは特別出演が多すぎ。妻夫木聡とか麻生久美子とか研ナオコとか、必要か?挙げ句の果てには中村勘九郎まで出てくる始末。もう好きにしてって感じです。話題づくりなのか出したがりなのか、それはわからないですが、こんなに特別出演が多いと集中できないんですよ。何度も「あっコイツ出てるんや」って思ってしまって。まあこの映画は集中するような映画じゃないですけど。
なんかこの映画は「志村けんのバカ殿」に近いところがありますね。影響されてつくっているのかもしれません。どっちがおもしろいかなんて一目瞭然ですよね。
【ミリオンダラー・ベイビー】 6点
まあ、それなりにおもしろかった。
この映画はアカデミー賞の4部門で賞をとったらしいんですが、正直そんな騒ぐほどの作品ではないと思います。ストーリー展開やクライマックスなど、映画としての流れはさすが。気持ちが入っていけるところも多少ありました。ただ、ストーリーの中で不明な点が何箇所かあり、それが最後まで明らかにされなかったのはダメですね。「ああ、何かかわいそうやなあ…」くらいは思っても、「なるほどーこいつの気持ちわかるぞー!」とまではいかなかった。それはさっき言ったストーリー上の不明点があったからでしょうね。
不明点の一つ目は、ヒラリー・スワンクが何故そこまでクリント・イーストウッドにコーチングしてほしかったのか、というところ。別にイーストウッドが超有名コーチだったわけでもないし、観ながら「コーチングをそこまで必死でお願いするには何か特別な訳があるんやろー」と思っていたのですが、特にその理由は明らかにされませんでした。恐らく理由なんてなーんも考えてなかったんでしょう。ストーリーを結ぶ上でのこじつけだったのではないでしょうか。
二つ目は、なぜ敢えて「女性のボクシング」にしたのだろう?ということ。日本でいうと、女性のボクシングは全く陽が当たらず、それだけで稼ぐのは難しいのですが、この映画はアメリカなのでしっかりと稼げています。「女性だからコーチは受けない」というところ以外は、「女性のボクシング」に発生する問題点や困難が描かれるシーンがありませんでした。イーストウッドと恋に落ちるわけでもなく、敢えて女性のボクサーにした理由がわかりませんでした。「男のボクサーが主役やったら普通やん」っていう軽い考えでもあったのでしょうか。まあ、確かにこれが男のボクシングなら、ただのスポ根ドラマになるわな。
全体的にはまあまあおもしろかった。ラストの場面は賛否両論あるでしょうが、僕はアリだと思います。ただそれ以前に、あと2歩くらい足りない映画だと思います。
【オペレッタ狸御殿】 7点
なんちゅう映画や…でもオモロイんちゃうのん?っていう映画。
もう、何と言っていいのかわかりません。悪く言うと「無茶苦茶」、良く言うと「奇想天外」。監督は80歳を超えるジジイの鈴木清順さん。才能とボケがうまいことマッチしているからこういう作品がつくれるんでしょうね。「意味分からん」とか「全然おもんない」とか言う人も恐らく多いと思います。僕も人には全くオススメできません。しっかりと本気で映画を観たいのであれば確実に退屈です。でも、もし時間があって1,800円が手元にあれば、経験としてぜひ一度観てほしい。そういう映画。
とにかく突然変異が多すぎる。舞台の上で行われているシーンから急にロケになったり、オダギリジョーやチャン・ツィイーの表現やリアクションが意味不明だったり。CGも使用されてましたが、使い方が普通の映画とは全く違い、リアル感を出すのでなく敢えて虚構のようにみせています。スタートから半分くらいまでは「うわ〜ヤバい映画観てもた〜」と思っていたのですが、そこからなぜか妙に心地よい気持ちになってくる。これが鈴木ワールドなのでしょうか。僕は全く意味が分かりませんでした(ストーリー云々のことではなく)が、満足しました。表現は自由。この映画でそれを感じました。
ただ、美空ひばりは必要なかったと思います。
何かなあ…イマイチ。
宮藤官九郎の作品はドラマ・映画を通じて初めて観たのですが、まず思ったのが「笑わせる場面がサブい」。彼ってこんなにサブい人なんでしょうか?一緒に観に行った人曰く、「他のクドカン作品はこんなにサブくない」とのことです。僕は彼の作品は初めてなので、完全に「クドカン=サブい」という式が成り立ってしまいました。最初のシーンで、バイクで一気に伊勢まで行くところがあるのですが、その下りがもうサブくてサブくて…。「うわ〜こりゃやばいな」と開始10分でまず思いました。おもしろかったのは荒川良々のシーンとおぎやはぎのネタだけ。終始ちょっと遊びすぎですね。やりたい笑いがどんどんエスカレートしていったのではないでしょうか。
あとは特別出演が多すぎ。妻夫木聡とか麻生久美子とか研ナオコとか、必要か?挙げ句の果てには中村勘九郎まで出てくる始末。もう好きにしてって感じです。話題づくりなのか出したがりなのか、それはわからないですが、こんなに特別出演が多いと集中できないんですよ。何度も「あっコイツ出てるんや」って思ってしまって。まあこの映画は集中するような映画じゃないですけど。
なんかこの映画は「志村けんのバカ殿」に近いところがありますね。影響されてつくっているのかもしれません。どっちがおもしろいかなんて一目瞭然ですよね。
【ミリオンダラー・ベイビー】 6点
まあ、それなりにおもしろかった。
この映画はアカデミー賞の4部門で賞をとったらしいんですが、正直そんな騒ぐほどの作品ではないと思います。ストーリー展開やクライマックスなど、映画としての流れはさすが。気持ちが入っていけるところも多少ありました。ただ、ストーリーの中で不明な点が何箇所かあり、それが最後まで明らかにされなかったのはダメですね。「ああ、何かかわいそうやなあ…」くらいは思っても、「なるほどーこいつの気持ちわかるぞー!」とまではいかなかった。それはさっき言ったストーリー上の不明点があったからでしょうね。
不明点の一つ目は、ヒラリー・スワンクが何故そこまでクリント・イーストウッドにコーチングしてほしかったのか、というところ。別にイーストウッドが超有名コーチだったわけでもないし、観ながら「コーチングをそこまで必死でお願いするには何か特別な訳があるんやろー」と思っていたのですが、特にその理由は明らかにされませんでした。恐らく理由なんてなーんも考えてなかったんでしょう。ストーリーを結ぶ上でのこじつけだったのではないでしょうか。
二つ目は、なぜ敢えて「女性のボクシング」にしたのだろう?ということ。日本でいうと、女性のボクシングは全く陽が当たらず、それだけで稼ぐのは難しいのですが、この映画はアメリカなのでしっかりと稼げています。「女性だからコーチは受けない」というところ以外は、「女性のボクシング」に発生する問題点や困難が描かれるシーンがありませんでした。イーストウッドと恋に落ちるわけでもなく、敢えて女性のボクサーにした理由がわかりませんでした。「男のボクサーが主役やったら普通やん」っていう軽い考えでもあったのでしょうか。まあ、確かにこれが男のボクシングなら、ただのスポ根ドラマになるわな。
全体的にはまあまあおもしろかった。ラストの場面は賛否両論あるでしょうが、僕はアリだと思います。ただそれ以前に、あと2歩くらい足りない映画だと思います。
【オペレッタ狸御殿】 7点
なんちゅう映画や…でもオモロイんちゃうのん?っていう映画。
もう、何と言っていいのかわかりません。悪く言うと「無茶苦茶」、良く言うと「奇想天外」。監督は80歳を超えるジジイの鈴木清順さん。才能とボケがうまいことマッチしているからこういう作品がつくれるんでしょうね。「意味分からん」とか「全然おもんない」とか言う人も恐らく多いと思います。僕も人には全くオススメできません。しっかりと本気で映画を観たいのであれば確実に退屈です。でも、もし時間があって1,800円が手元にあれば、経験としてぜひ一度観てほしい。そういう映画。
とにかく突然変異が多すぎる。舞台の上で行われているシーンから急にロケになったり、オダギリジョーやチャン・ツィイーの表現やリアクションが意味不明だったり。CGも使用されてましたが、使い方が普通の映画とは全く違い、リアル感を出すのでなく敢えて虚構のようにみせています。スタートから半分くらいまでは「うわ〜ヤバい映画観てもた〜」と思っていたのですが、そこからなぜか妙に心地よい気持ちになってくる。これが鈴木ワールドなのでしょうか。僕は全く意味が分かりませんでした(ストーリー云々のことではなく)が、満足しました。表現は自由。この映画でそれを感じました。
ただ、美空ひばりは必要なかったと思います。
2005-06.07 TueSONS[ライフ]
Time[21:14] Comment[0] Trackback[0]
スタジアムには大歓声のシャワー
暗い夜を照らすライトはそこにいた何万という人間の中の
たった一人のためだけにある
場内アナウンスが名を呼ぶと
その男がゆっくりとネクストバッターズサークルから歩き出す
ゆっくりとゆっくりと
まるで歓声をより長く浴びていたいがためのように
18歳の男が「もう年だ」と呟く
長い長い長い人生が待っていることは百も承知していた
気付くのが遅かった夢から目を背けるかのように6弦に手をやり
歌いたくもないメロディーを夜の駅に響かせる
大人達が受験戦争への参加を促せば
徴兵された男は失敗し
長い長い長い1年間のプレーオフに挑む
19歳の男は大学生
新しい世界を見つければ早すぎた夢への諦めを忘れ去ろうとする
団体行動と集団生活に夢の世界をダブらせて
一人のプレーヤーとして生きている感情が芽生えてた
酒癖の悪いアイツも飄々としたアイツもナイーブなアイツも
海というバッターボックスで大きく大きくスイングする
20歳の男はいつからか一人の女に甘酸っぱい感情を抱く
「女とは男のためにいる」なんて言ったのは遠い遠い過去の話
ドラマのヒロインにさせようと試行錯誤の毎日が
新御堂の帰り道にやさしく通り過ぎる
見えない蟻地獄に落ちた二人は大空を舞い
そこからあの夢のスタジアムを一瞬見下ろせた気がした
23歳になった男は憧れのフィールド・オブ・ドリームスを思い出しながら
ネクタイとスーツというユニフォームに身を包む
そこには背番号もなく
あるのはただただ白く輝くYシャツだけ
満員電車の車窓から「∞の未来」の文字が見えた
フォアボール狙いなんて作戦は
UFOのようにポルターガイストのように第三次世界大戦のようにナンセンス
ギラギラと太陽が怒りつける夏の日
河川敷の土の上で男は白線のないバッターボックスにゆっくりと入る
コンタクトレンズの向こうには大観衆がメガホンを叩き
声を嗄らし叫ぶ姿がはっきりと見えた
そこで俺は全球フルスイングで
ライトスタンドへ起死回生の逆転満塁ホームラン!!
項垂れるピッチャーを横目にガッツポーズでダイアモンドを回る男は
ふと気が付くと打席で3つ目のスイングを終えていた
キャッチャーミットからは白球が覗き
ゲームセット
気付くのが遅かった夢は「∞の未来」が叶えてくれる
場内アナウンスが名を呼ぶと
その男がゆっくりとネクストバッターズサークルから歩き出す
そのとき俺は髭でも生やし
スタンドでお前を見守っているだろう
暗い夜を照らすライトはそこにいた何万という人間の中の
たった一人のためだけにある
場内アナウンスが名を呼ぶと
その男がゆっくりとネクストバッターズサークルから歩き出す
ゆっくりとゆっくりと
まるで歓声をより長く浴びていたいがためのように
18歳の男が「もう年だ」と呟く
長い長い長い人生が待っていることは百も承知していた
気付くのが遅かった夢から目を背けるかのように6弦に手をやり
歌いたくもないメロディーを夜の駅に響かせる
大人達が受験戦争への参加を促せば
徴兵された男は失敗し
長い長い長い1年間のプレーオフに挑む
19歳の男は大学生
新しい世界を見つければ早すぎた夢への諦めを忘れ去ろうとする
団体行動と集団生活に夢の世界をダブらせて
一人のプレーヤーとして生きている感情が芽生えてた
酒癖の悪いアイツも飄々としたアイツもナイーブなアイツも
海というバッターボックスで大きく大きくスイングする
20歳の男はいつからか一人の女に甘酸っぱい感情を抱く
「女とは男のためにいる」なんて言ったのは遠い遠い過去の話
ドラマのヒロインにさせようと試行錯誤の毎日が
新御堂の帰り道にやさしく通り過ぎる
見えない蟻地獄に落ちた二人は大空を舞い
そこからあの夢のスタジアムを一瞬見下ろせた気がした
23歳になった男は憧れのフィールド・オブ・ドリームスを思い出しながら
ネクタイとスーツというユニフォームに身を包む
そこには背番号もなく
あるのはただただ白く輝くYシャツだけ
満員電車の車窓から「∞の未来」の文字が見えた
フォアボール狙いなんて作戦は
UFOのようにポルターガイストのように第三次世界大戦のようにナンセンス
ギラギラと太陽が怒りつける夏の日
河川敷の土の上で男は白線のないバッターボックスにゆっくりと入る
コンタクトレンズの向こうには大観衆がメガホンを叩き
声を嗄らし叫ぶ姿がはっきりと見えた
そこで俺は全球フルスイングで
ライトスタンドへ起死回生の逆転満塁ホームラン!!
項垂れるピッチャーを横目にガッツポーズでダイアモンドを回る男は
ふと気が付くと打席で3つ目のスイングを終えていた
キャッチャーミットからは白球が覗き
ゲームセット
気付くのが遅かった夢は「∞の未来」が叶えてくれる
場内アナウンスが名を呼ぶと
その男がゆっくりとネクストバッターズサークルから歩き出す
そのとき俺は髭でも生やし
スタンドでお前を見守っているだろう