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2005-10.29 Sat勝手に映画批評8[映画]

Time[22:30] Comment[3] Trackback[24]
【私の頭の中の消しゴム】 ?点
展開がどうとか、オチがどうとか、あまり関係なく観られた映画。涙が出まくってえらいことになりました。感動というよりは、悲しくて泣いてしまうって感じ。正直、病気を題材にするのは卑怯やと思いました。こんなもん誰でも泣くっちゅうねん。泣かせるシーンが何度もあって、「もうやめてくれ」とさえ思いました。

前半のストーリーが進行していく部分は、かなり“韓流っぽさ”を感じました。笑わせようとしているのか、急に意味の分からん行動をしだしたり、展開が部分的に急展開だったり・・・。以前観た「猟奇的な彼女」と似た部分があって、観ていて「あ〜、なんか韓国映画っぽいな〜」って思いました。良くも悪くも、そこが気になりました。

後半は「これでもか!」と泣かせにかかる展開。ソン・イェジンとチョン・ウソンの演技もそれなりに良かったし、何より翻訳が上手い!言葉一つひとつが胸に突き刺さるような、良い翻訳だったと思います。こういう映画は同じ意味合いでも言い方次第でだいぶ感じ方が違います。その辺をよく分かっていたのでしょう。根本理恵っていう翻訳家です。覚えとこう。

映画館に入るとき、前の上映を見終わって帰る人を何人か見ましたが、ほぼ全員が泣き顔をしていました。「鎖骨に涙が貯まる映画」との評判は聞いていましたが、まさかここまで人々を泣かせる映画とは・・・。間違いなく、今までの映画で一番泣きました。ストーリー内容とか展開とかオチとかは別に普通で、言ってみれば「ベタな泣かせる映画」なのに、なぜこんなに泣いてしまうんでしょう?不思議な映画です。だから点数は不明です。

この類の映画は、あまり評論家っぽい視点で観ず、単純に感情移入させて観るのが一番楽しめますね。評論家っぽい感じで観るのはもったいないっすよ。


【シンデレラマン】 5点
う〜ん、まあ、普通の映画。
ストレートで大衆的な映画って感じですね。それなりに感動する部分もありましたが、終わってみれば「ふーん」っていう映画です。これは実話らしいのですが、あまりにうまくいきすぎていて、「ホンマに実話か?」って思いました。実話なのに映画っぽすぎる映画。オチも普通すぎて拍子抜けしました。期待していたほどのおもしろさではありませんでした。

ボクシングの試合のシーンはまずまずだったと思います。世界戦にもなって、あんなにお互いのパンチが当たりまくるのは不自然でしたが、カメラワークとか時間配分がそれなりに実際のボクシングっぽさを出していたと思います。最後のベアとの戦いは少し手に汗握りました。この前観た「ミリオンダラー・ベイビー」に比べると、ボクシングのシーンは良かったと思います。

この映画は「家族愛」「夫婦愛」がテーマになっている映画なのですが、最後の最後でテーマから外れてしまったような気がして残念でした。ベンに殺されないかどうか、無事家に帰ることができるのかが試合の焦点だったはずなのに、最後はそこから逸れていました。あんなに「家族愛」「夫婦愛」を描いていたのに、最後の最後で「勝者」という結果を息を呑んで待つ人々の姿が見えて、冷めた気分になりました。正直、ここでは勝ち負けなんてどうでも良かったんです。僕はレネー・ゼルウィガーの目線でこの映画を観ていたので、特にそれを感じました。「えっ!?」って感じ。

全体的には可もなく不可もない映画です。感動しないわけではないんですが、特に心に残るわけでもない。印象に残ったのは、レネー・ゼルウィガーが素晴らしくカワイイってことくらいかな。
  

2005-10.20 Thu落とし物がもたらす「幸せ」[世の中]

Time[23:57] Comment[0] Trackback[2]
「なんだ、あれが僕たちの探している青い鳥なんだ。僕達はずいぶん遠くまで探しに行ったけど、本当はいつもここにいたんだ」

これはメーテルリンクの童話『青い鳥』の中で、チルチルが言った言葉。大切なものは足元にあるということを意味している。

「恋人と別れた」「親を亡くした」「友達とケンカした」「年をとった」「病気になった」
何かを失ったとき、人はその大切さに初めて気付く。大切なものが側にあればあるほど、その大きさにはなかなか気付けない。それは人や形のないものだけでなく、物に関しても同様だ。大切さを計る物差しは人それぞれで、例え他人ではちっぽけに感じるようなコト・モノであっても、本人にとってはこの上なく大切な場合もある。しかし悲しいかな、人がその大切さに気付いた時は、それを失ってしまった時でもあるのだ。失ったものを取り戻そうとしても難しかったり、時には手遅れだったりする。しかしもし運良くその大切な何かを取り戻せたとき、その喜びは計り知れないものであり、そのものに対する愛情や執着心は失う以前よりはるかに高まる。

人や形のないものに関しては、失って気付いてからでは遅い場合が比較的多い。それは人の心だったり、時間だったり、自分の努力だけではどうにもならないことが関係してくるからだ。だからこそ我々は、身近な人や物事に感謝をしながら毎日を生きなければならない。しかしそれが物であったとき、取り戻せる可能性は十分にある。単純にその物が手元に返って来さえすれば良いのだから。その物が手元に返ってきた時、今まで以上にその物の大切さを感じ、手元にあることに幸せを感じる。少し大げさかもしれないが、言ってみれば落とし物をしたときというのは「より幸せを感じられるとき」でもある。ピンチであるがチャンスでもあるのだ。もちろん、手元に返ってくることが前提なのだが。

しかし現状、無くしてしまった物が手元に返ってくる可能性は高くない。昨年1年間に、全国の警察に届け出があった落とし物は過去最高の1070万件。しかしその落とし物が、持ち主の元に戻ったのはたったの335万件。落とし物をした人の3人に2人は無くしたまま返ってこないという状況だ。原因の一つは日本の遺失物法にある。

日本の遺失物法は1958年の改正以来、内容が全く見直されていない。現状の低い返還率を高くするためには、遺失物のデータベース化や都道府県警間でのネットワーク化が必要不可欠である。現状はそのデータベース化などがなされていないため、せっかく届け出があっても他の警察署に情報が行き渡らなかったり、個人情報保護の壁に阻まれたりして持ち主の元になかなか戻らない。スムーズに返還されるには、現状では同じ警察署に拾得物と遺失物の届け出が寄せられなければならないのだ。そんなうまい偶然が度々起こるはずもなく、現状の返還率はかなり低い数字になっている。早くデータベース化・ネットワーク化して、どこの警察署からでも遺失物の照会ができるような環境を構築すべきである。

朝日新聞によると、肌身離さず持っていた夫の遺灰を旅行中になくした女性が、どこの警察に届け出ても一括して照会できる仕組みにしてほしいと警察庁に要望してきたこともあるという。

「失って初めて大切さに気付く」というのは、本人の意識に問題があったから起こってしまったことである。しかし大切ものを取り戻したとき、人は大きく成長し、より幸せになれる。落とし物をした人にはそのチャンスがある。ぜひとも遺失物をデータベース化・ネットワーク化し、できる限り多くの人にチルチルのような想いを感じさせてほしい。これは、国民をより幸せにするための、極めて大切なことである。
  

2005-10.09 Sunホワイトカラー・エグゼンプション導入に断固反対![世の中]

Time[16:34] Comment[36] Trackback[15]
ある会社にAさんとBさんがいます。Aさんはある業務を効率的に行い、定時より30分遅れの18:30に退社しました。一方、Bさんも同じ業務を行っていたが、あまり効率が良くなく、3時間残業し21:00に退社しました。このとき、効率的な業務を行ったAさんには残業代が出ず、効率の悪いBさんに残業代が入りました。会社側は、この現状は不公平だと思い、ある措置をとりました。さて、それは次のうちのどれでしょう?

1)全員が定時で帰られるよう、効率的な業務遂行を行うよう社員に指導する。
2)残業代を出さないようにし、仕事が遅い人はいくらでもタダ働きしてもらう。


理想としては1)だろうと思うが、そう簡単はいかないもの。なので、会社によっては2)の措置をとる会社もあるだろう。それはやはり人それぞれ、会社もそれぞれだからである。

しかし近い将来、国としてこの2)を合法化してしまおうという動きがある。現在この国には労働基準法により、一日8時間、一週間40時間という労働時間の定めがある。そして平日の残業や休日出勤をさせたら25%以上、深夜業の場合は50%増の割増賃金を払わなければならない。現状、この労働基準法を完全に守っている企業などほとんどないだろう。現時点で十分「長時間労働の国」の状態であるのに、国は労働基準法の規制を取っ払い、言ってみれば「24時間でも働いて日本のために頑張れ」という制度を正式につくろうとしている。現状、多くの労働者は残業手当対象外の長時間労働を強いられ、「職場ストレス」「過労死」「仕事が原因でのうつ病」など様々な問題が提起されている。そんな現状に、この国は追い打ちをかけようとしているのだ。少子化や未成年犯罪などの問題も、この「労働者の長時間労働」が全く関係ないとは言えないと思う。果たして国は、そんな労働の現状をすべてわかったうえで、この制度をつくろうとしているのだろうか。

その制度は、ホワイトカラー・エグゼンプションという。アメリカが本家であるこの制度は、定められた一定の要件に当てはまるホワイトカラー(研究者、技術者、事務職員などの頭脳労働者)を、労働基準法の「規制」からエグゼンプション(除外)しようという制度だ。その要件に当てはまる労働者は、残業しても割増賃金を支払われなくなり、労働時間の規制を受けることもない。ホワイトカラー労働者は、考えて成果を出すことが仕事であり、労働時間と非労働時間の境があいまいになることが多い。だったら労働基準法の時間規制を受けず、「成果をあげるために好きなだけ働きなさい」という論理である。その代わり、成果を挙げれば見合った報酬を受け取ることができる。まさに米国流の「成果主義」。これを日本でも導入する動きに現在なっている。

ただ、アメリカの「成果主義」と違って、日本での導入はどちらかというと「賃金抑制」や「国際競争力強化」の意味合いが強い。つまり、労働者の立場でなく、企業・国の立場で考えた結果の導入なのだ。財界がこの制度の導入に本気になったのは、厚生労働省がサービス残業根絶の通達を出したことがきっかけ。これを力に労働者の申告が相次ぎ、トヨタなどの主要企業が不払い残業代を支払わされた。通達後4年余の間に、支払いは605億円を超える巨額に達し、財界に衝撃を与えていた。これが導入の引き金になったのである。また日本経団連は「最近の労働行政は、企業の労使自治や企業の国際競争力の強化を阻害しかねないような動きが顕著」と非難し、ホワイトカラー・エグゼンプションの導入を訴えた。もっともっと働かせ、もっともっと無駄な金(=残業代)を減らしたいのだ。このむちゃくちゃな考えを国として実行しようとしているのだから、末恐ろしいったらありゃしない。

アメリカでは、この制度の要件は「2人以上の部下をもっている管理職や運営、専門職で週給455ドル以上」。しかし日本経団連が6月に出した提言では、「年収400万円以上の事務労働者」という要件だけ。地位、権限、責任、部下人数等とは無関係なのである。したがって、かなりの労働者にその要件が当てはまり、無制限に働かされ、残業代も支給されなくなる。

小泉内閣が今年3月に閣議決定した「規制改革・民間開放推進三カ年計画」は、一定の労働者を労働時間規制の対象から外す検討をするとしている。その目的は「自己の裁量の下で自由に働くことを可能にする」とのことだ。これがどれほど恐ろしいことか、彼らは知っているのだろうか。この制度は、早くも来年の国会に法案として提出する予定らしい。

サービス残業の合法化が生み出す過労死社会。その被害者になるのは、もしかしたらあなたかもしれない。そうなる前に、国民の声を彼らに届かせようじゃないか。

2007.1.22の追記:ホワイトカラー・エグゼンプション導入に断固反対!につづく
  

2005-10.04 Tue死んだらどうなるんやろ?[戯言]

Time[23:01] Comment[8] Trackback[0]
特に理由もなく、一つのことを頭の中で深く考えてみる。こんなことは恐らく、誰でも一度は経験したことがあるだろう。僕は昔から、ふとした瞬間に「死んだらどうなるんやろ?」ってことを特に理由もなく考えてみることがあった。まあ、年に1〜2回くらい。それも2〜3分くらいの間だけ。特に最近は、相次ぐテロや自然災害、阪神大震災やJRの脱線事故など、いつ自分が犠牲になるかわからない事故や事件が身近にも起こり、「死ぬ」ということを以前よりリアルに感じてしまうようになった。もちろん、僕に自殺願望があるわけでもなければ、殺人事件を起こしたいわけでもない。単純に、「死ぬ」ということが理解できないのだ。そんなことを一瞬ではあるが深く考えていると、だんだん訳がわからなくなってくる。

人間が死んだら、恐らく何も残らないと思う。記憶も、考えも、もちろん肉体も。僕は今まで死んだことがないのだから、もちろん「たぶん」としか言えないが。この世の中には様々な宗教があり、それぞれが「死」について独自の考えを示しているが、僕がさっき書いた考え方をしている宗教はほとんど無い。宗教とは本来、自らの存在と自らの理想とする正しい人間像の基準を教えるための活動や運動のことであって、「死んだら何も残らない」なんて考えは、現実的ではあっても理想的ではないのだろう。生きること(=死に近づくこと)は、あくまでも前向きなことであると信じたいのだ。まあ、それは僕も同じ。

エホバの証人の考え方は、僕の考えとなかなか近かった。「死は完全な無意識の状態である」「生きている者は自分が死ぬことを知っている。しかし、死んだ者には何の意識もない」「人が死ぬと、その霊は出て行き、彼は自分の地面に帰る。その日に彼の考えは滅びうせる」 霊がどうのこうのの部分は微妙だが、この考えは単純で現実味がある。この考えを信じたいというわけではなく、実際どうなのかと考えた時、この考えが近いような気がする。死んだ時点でその人は物事を考えられなくなるし、肉体を動かすことができなくなる。そしてそれ以前に、永遠に意識がない状態になる。「人は死んでも魂として永遠に生き続ける」という考え方をたまに聞くが、それはどうだろう。確かに、魂になって自由に生き続けるのはなかなか新鮮で経験してみたいが、現実的ではない気がする。特に僕は、いわゆる「霊感」のようなものが全くなく、そのようなものを信じていないからだ。

僕が子どもの頃は、仏教の輪廻転生を信じていた。いや、というよりも、それが当たり前のことだと思っていた。人は死ぬと、数日以内に何かに生まれ変わる。しかし生まれ変わった時、その前の自分の記憶や考えは全て消えてしまう。・・・確か、こんな感じの内容だったはず。すなわち、何もかもリセットして新しい自分に変わるのだ。この考えは、「死んでも自分は生き続ける」という意味では、まあまあ希望があるように思える。しかしこれは、実はとても残酷なことだと僕は思う。死ぬまでに経験した素晴らしい思い出や考えが、死んだ瞬間にゼロになってしまうのだ。人生とは、どれだけ素晴らしい思い出をつくり、どれだけ素晴らしい経験をしたかが大切だと思う。しかしその素晴らしい思い出や記憶が、「生まれ変わる」ということのために、一瞬でリセットされるのだ。「生まれ変わった自分」といっても、記憶も意識も体も何もかもリセットされるのだから、言ってみればまるっきり“違う人間”。では何をもって「自分」と言うのだろう・・・?もう、わけがわからなくなる。こんなことなら、魂となって彷徨う形でもいいから、自分という人間をそのままにしておいてくれ、とさえ思ってしまう。せっかくの記憶や考えを全て消してしまうのは、ちょっと悲しすぎる。

「生まれたのも自分の意思じゃないし、死も普通に死ぬのは意思じゃない。突然やってくる、どっちもね。ああ、詩の荘だって言ってるときは、まだ生きてるし、あっ、死んだというときは、死んじゃってる。つまり死には現在形がないんだ。だから、ああ、俺も死んじゃうのかなあと思って生きてるうちにいつのまにか自分で気付かないうちに死んじゃってるんじゃないの。だから、本人には死はないんじゃないの。僕は、死ぬまでは、精いっぱい生きてようと思ってる。まあ、生きてるのがいいと思うよ。だったら楽しく、おもしろく、よりよくね。ヒトにやさしくね。ヒトに良くすると自分に良いことが起るし、自分に浴するとヒトにも良くすることになるしね。僕は、毎日喜んで生きてるよ。」

この言葉は、どっかのサイトで見つけたある画伯の言葉。いい考えだと思う。死んだ後のことをいくら考えても、結局は死んだ後の苦しみなんて何も感じない。だったら、何かを感じられるとき(=生きてるとき)にいっぱい楽しいことをしようってこと。この言葉を読むと、なんか気持ちの構造が単純になるような気がする。何事も、難しく突き詰めて考えていくと、最終的には単純な考えに落ち着くものなのかも知れない。