sons and daughters -blog-

2005-11.28 Mon遙かなるタイムマシン[戯言]

Time[22:49] Comment[0] Trackback[1]
西暦2XXX年。地球温暖化の影響で大陸は海に沈み、数少ない地上も砂漠化。さらに人口増加なども加わり、地球はもはや人間の住む場所ではなくなった。絶滅を恐れた一部の人間は、以前から「惑星地球化」のプロジェクトを進めていた火星への移住をはじめる。もともと火星は太陽系内で地球に最も近い環境を備えた惑星である。この「惑星温暖化」プロジェクトにより、すでに火星は大気が温室効果ガスで満たされ、凍りついていた二酸化炭素が温暖化を促進し、気圧を上昇させていた。しかしこのプロジェクトはまだ進行途中で、植物の定着に関してはまだ完璧な状態ではなかった。火星にある酸素だけでは生活するに少なく、人体に影響を及ぼす恐れがあったので、人々は地球から大量の酸素を火星に持ち込み、その酸素を使用しながら生活をおこなうことになった。食料となる動物・植物はある程度の量を飼育することに成功し、人間は火星で徐々に生活の幅を広げていった。

しかし、そんな火星の生活でも変えられないことが一つあった。それは「重力」である。火星は地球と比べて重力が小さく、地球の約1/3。90kgの大男が30kgの人間として存在する。人々はより速く歩くことができ、より楽に生活することができた。しかし一方で筋肉の衰えは激しくなり、体を支えなくてもよくなった骨からはカルシウムが減少。筋肉も骨も弱りきった虚弱人間が急増していった。人々は必死で筋力トレーニングや健康増進に努めたが、1/3という小さすぎる重力には逆らえず、脳だけが発達した“グレイ”型人間がほとんどになった。

筋力が衰えすぎた人間たちは、多くの作業を機械やロボットで行えるよう、科学技術の開発を進めた。多くの資源が眠る火星には研究・開発を行う土地も充分にあり、人間は地球で生活していた頃よりも急速に技術を進歩させていった。特に発展したのは宇宙開発で、今まで謎に包まれていた宇宙の仕組みなどをどんどん解明していった。そしてある時、物理学や宇宙論で言及される時空の中の特殊な領域である「宇宙ひも」の解明に成功する。「宇宙ひも」とは、宇宙の初期に「真空の相転移」という現象の過程で作られたひも状のエネルギーのかたまりのこと。この「宇宙ひも」が時空を歪ませ、時間を変化させている仕組みを人々は解明する。そしてそれを利用して、タイムトラベルを行うことについに成功した。いわゆるタイムマシンなるものを発明したのである。新しい、大きな文明の誕生だった。

タイムマシンの開発により、人類はついに過去と未来を行き来することができるようになった。過去に戻って自分が生まれる前に戻ることもできれば、数十年後の自分も見ることができる。人々は歓喜し、荒唐無稽の夢物語だったタイムトラベルに心を躍らせた。しかしここで問題となったのは、過去に戻ると何らかの小さな行動だけで、歴史が大きく変わってしまう恐れがあるということだ。これにより自らの存在だけでなく、人類の存在までもが無かったことになってしまうかもしれない。人間が自由に安全に時間旅行を楽しむためには、厳しい「時間法」なるものの制定が急務となった。「時間法」では、時間旅行では必ずその時代の物や人から数km以上離れたところで見物しなければならず、タイムマシンから降りることも許されない。降りてしまうと厳しい罰則を受けることになり、もし仮に人や物に何らかの危害を加えてしまえば、さらに厳しい処罰が課せられる。過去や未来に滞在できる時間もきちんと設定し、徹底させる。このように厳しい「時間法」を制定し、歴史が変わらないようにする環境を整えた。

厳しい「時間法」の定めがあるとはいえ、人々は夢のタイムトラベルを存分に堪能した。燃料費や危険性などの関係で、時間旅行にはかなりの料金が必要だったが、それでも時間旅行の人気は爆発。各地域には専門の旅行代理店が設置され、申し込み客が殺到した。時間旅行は現在から遠くなればなるほど金額が高騰するシステムで、人気パックと予想されていた恐竜ツアー(ジュラ紀や白亜紀など)は、高料金にほとんど誰も手が出なかった。そんな中、1番人気だったのは第二次世界大戦。そこそこ手ごろな価格で、子どもたちに命の大切さを教えることができる絶好の内容。家族旅行として大人気のツアーとなった。カップルに人気だったのは「ミレニアム」で盛り上がった1999年の大晦日。世界各地で行われたさまざまな美しいミレニアムイベントをタイムマシンから眺めることができ、ロマンチックな旅行として人気を得た。また、もちろん過去だけでなく、未来への旅行も大人気。「下手な占い信じるよりも、未来を実際に見にいこう」を宣伝文句に、多くの人々が未来の自分の姿を見に行った。未来というものは考え方でいくらでも変えることができる。たとえ見に行った未来が期待していた未来とは違っていても、その未来を知った自分だからこそ、それとは違う未来に進もうと努力することができる。未来への旅行は“自分の未来を良きものにするため”という深い意味のあるツアーとなった。このように、時間旅行は人類の生活を大きく変え、人類の発展になくてはならないものとなっていった。


第二次世界大戦中、敵味方の判別ができない謎の飛行物体が何度も戦闘空域で目撃されている。ウインストン・チャーチルはそれを「フーファイター」と呼び、新しい未確認の敵として恐れた。また徳川家康は1609年、駿府城に現れた“グレイ”に似た生物に対し、「人目のつかぬところに追い払え」と命令を出したといわれている。さらに、阪神淡路大震災が起きる直前、各地で謎の発光体が目撃されていた。神戸市では中心部が赤い白の帯がおよそ3メートルの高さで走ったのが目撃されている。最近でもスマトラ沖地震の直前に多数のUFOが目撃されている。

歴史上のポイント、ポイントで、「UFO」の目撃情報が数多く存在している。それらはまさしく未来の火星から来たタイムマシンであり、楽しく時間旅行をしている姿そのものなのだ。我々の子孫はいつか火星に住み、そこで人類の夢の一つだったタイムマシンと出会う。もしかしたらこの文章を書いている今も、どこか遠くから私の子孫がこっちを見ているかもしれない。できることなら彼らと会って話を聞いてみたい。しかし彼らには「時間法」があるから、それは叶わぬ願いだろう。


※この物語はもちろんフィクションであり、論理の裏付けがある未来予想というわけではありません。あくまでも希望であり創造でございます。あしからず。
  

2005-11.14 Mon急激な変化の裏にあるもの[世の中]

Time[22:05] Comment[7] Trackback[12]
特においしくない料理を評価する言葉として、最も妥当なのは「おいしくない」である。何てことない、そのままの表現だ。しかし私の友人は、このような状況のとき「マズイ」という言葉を使う。私の感覚で「マズイ」というのは、それこそ青汁なんかよりさらにマズイ、口の中に入れることもできないような味を指す。なぜなら、特においしくない料理を「マズイ」と表現してしまえば、本当にマズイ料理を表現する言葉がなくなってしまうからだ。「めっちゃマズイ」「もっとマズイ」なんて表現にすると、「特においしくないけど食べられないことはない料理」と「吐き出すほどマズイ料理」を同じ種類に分類している気がして、前者に申し訳ない思いがする。ただ、ここで救いなのは、私の友人は本当の意味でその料理を「マズイ」と言っているわけではない、ということだ。極端に表現しているだけであって、その料理を「吐き出すほどマズイ」とは実際思っていない。

このような極端な表現は世の中にたくさんある。例えばカレーライスの表現。そもそもカレーとは、「複数のスパイスを使って煮込んだ料理」であって、この中の「スパイス」には“辛い”という意味が暗に含まれている。ということは、カレーライスである時点でその料理は多かれ少なかれ“辛い”ということになる。しかし、市販されているカレーのパッケージには「甘口」という表現がしばしば書かれている。これを食べても、もちろん“甘い”とは感じない。「辛口に比べると辛くない」程度であって、さすがに“甘い”まではいかないであろう。これは単純に分かりやすくするための表現であって、もちろん誰もがこんな事は言わなくても知っていること。だからこんな表現が許されているのだ。

上記の2つの例は、結局は言い方が極端なだけであって、その言葉を使う人も使われる人も「実際にそう思う」までには全く至っていない。それは当たり前なことであって、例えば冬に暖房をかけたとき、温度を上げすぎて「暑い」と感じていきなりクーラーに切り替える人なんていない。ロン毛が伸びすぎて「ちょっとうっとおしく感じるな」程度でいきなりボウズにする人なんて(中にはいるかもしれないが)ほとんどいない。そのような+100→−100みたいな急激な心境・行動の変化は、人間にはほとんど起こりえないと私は思っている。

しかし、恋愛感情については、このような極端な変化がもしかしたらあり得るのかもしれない、と先日のニュースを見て一瞬私はそう感じた。東京都町田市で都立高一年の女子生徒(15)が刺殺された事件。犯人は同じ学校に通う同学年の少年(16)だった。被害に遭った少女は自宅六畳の居間に倒れており、刃物による傷は首をはじめ手や頭、背中など約50カ所もあった。「助けて」と叫んで室内を逃げ回りながらも、執拗に襲われ続けたらしい。激しい恨みを思わせる犯行である。少年は調べに対して「小中学校の同級生だったのに、高校になって急に冷たくなったのでやった」と動機を話している。まだ確定されたわけではないが、警視庁は少年が一方的に好意を寄せていたという見方を強めている。これがもし本当に、恋心が少年の心の奥にあったとしたら、大好きな気持ちが急激に憎しみに変化したことになる。大好き→憎いへの変化である。言い換えれば、一緒にいたい→殺すへの変化とも言える。今回の事件だけでなく、過去にもそういう事件は数多くあり、別れ話をされたから殺した、などという事件も記憶に新しい。

しかし考えてみると、この少年のような心境の急激な変化は、果たして本当に“変化”しているのだろうか。大好きだけど自分の思うような関係になれない。だから、ある意味で“自分のもの”にできるよう、むりやり自分自身の手で相手を葬り、永遠のものにする。私にはそのような心境を理解することができないが、もしかしたら彼にとっては、それが「好き」という気持ちの究極の表現だったのかもしれない。もちろん、冷たくされたことへの恨みや憎しみもある程度はあるだろう。しかし根本にある「好き」という恋愛感情が、急に『+100→−100』に変化したのではない、ということなのではないだろうか。

ある裁判で裁判官が、痴情のもつれで女性を殺害した被告人に対して厳しい判決を下し、その際次ような言葉をかけた。「男女の仲というのは、自分の願望や意思だけでは成り立たない。真の愛情とは、相手を思いやる心を持って、相手の意思も尊重しなければならない」。真の愛情とは、相手の幸せを願う気持ち。その言葉が理解できれば、「好き」の究極の表現が『殺す』にはならないはずだ。
  

2005-11.09 Wed本田美奈子.さんを偲ぶ[音楽]

Time[23:40] Comment[3] Trackback[7]
あれは恐らく1年半ほど前。今までミュージカルなど見に行ったことのなかった自分が、生まれて初めて見に行くことになった。それは地球ゴージャスという岸谷五朗と寺脇康文による企画ユニットの「クラウディア」という公演。大阪のフェスティバルホールで上演されていた。わざわざチケットを取ってまで見に行こうと思ったのは、ファンであるサザンオールスターズの楽曲が随所で歌われていたから。ただそれだけが理由で、特に目当ての出演者がいたわけでもない。公演が始まり、岸谷五朗や寺脇康文らが歌い、踊っていた。その中に、一際目立つ彼女の姿があった。

彼女がミュージカル歌手であることは何となく知っていて、以前から「アイドルだった割には歌がうまいなあ」ぐらいは感じていた。甲高い声とダイナミックなビブラート。「1986年のマリリン」も何度か聴いたことがある。公演前、パンフレットを見て「あっ、この人出てるんや」と思ったのをよく覚えている。彼女のことを以前からある程度知っていたにもかかわらず、実際の公演ではその歌声に驚き、見とれてしまった。「か細い体で、よくあんなに歌うことができるなあ」と彼女はいろんな人に何度も言われてきたという。実際に生で彼女を見ると、そんなセリフを言う人の気持ちがよく分かった。細すぎる体から、強くて生き生きした声が何度も発せられる。公演が終わり外へ出ると、耳に残っていたのは誰よりも彼女の歌声だった。

そんな彼女を今年1月、急性骨髄性白血病が襲う。「決意新たに私自身を磨いていきたい」と名前の後に「.(ドット)」を付け、吉画に変更した矢先の発覚だった。10ヶ月の闘病生活もむなしく、先日彼女は亡くなった。4月には無菌室から一般病棟に移り、7月には退院もして順調な回復ぶりを見せていたのだが、その後再び入院。10月末には染色体の異常が見つかり、体調が悪化していたという。早すぎる訃報に私もかなりショックを受けたのだが、ニュースなどで生前の彼女の歌声やコメントを聞いていると、悲しみと同時にパワーのようなものも沸いてきた。これが彼女の持つ大きな力なのだろう、と今現在感じている。

「心が開いて、心の目で、周りを見渡してごらん、きっと、小さな幸せの芽が、見つかるよ。そして、そこから少しずつ、笑顔が生まれてくる。笑顔が生まれ始めたら、喜びに変わるのも、もうすぐ。(中略)豊かな笑顔が増えたら、きっと周りにいる人達にも、幸せ届ける事が出来るでしょう。 笑顔がいちばん」

これは、彼女が今年3月に病床で作詞した「笑顔」というタイトルの歌詞の一部分。まるで苦しむ自分に言い聞かせるかのような内容で、考えれば痛々しくも感じてくる。しかし恐らく、これは自分自身への詩ではなく、これを読む全ての人へのメッセージなのではないだろうか。病気で苦しんでいるにもかかわらず、彼女は励ます友人の体調を逆に気遣ってみたり、ハートマークいっぱいのメールを送ってみたりして、周囲の幸せを願い続けていたという。自分が笑顔で振る舞うことにより、周りが幸せになれる。そしてそのことが、彼女自身の幸せでもある。この歌詞ではそんな彼女の想いが込められているように思える。「天使の笑顔」と言われたのは、彼女のそんな想いが根本にあるからではないだろうか。

「才能ある人は若くして亡くなる」
そんな言葉を誰かが言っていたのを思い出した。その言葉が誰に対しても当てはまるかは知らないが、その人は伝説になり、後々まで語り告げられる。彼女はこれから伝説になり、人々の中に生き続けていくのだ。そしてそんな伝説へ一歩でも近づこうと、この先ミュージカル歌手をめざす若者が少なからず増えていくことだろう。ミュージカルは日本になくてはならない娯楽になり、彼女のように夢を与えられるミュージカル歌手もどんどん増えていく。近い将来、そんな日が来るかもしれない。それは彼女の望みでもあるだろうし、そうなれば間違いなく彼女の功績である。

天使が贈ってくれるものは、美しい歌声だけではない。
ご冥福をお祈りいたします。
  

2005-11.04 Fri私的音楽特選5[音楽]

Time[22:44] Comment[4] Trackback[0]
歌は不思議な力を持っている。その時の気分や、考えてること、状況などで聴きたい曲はどんどん変わる。逆に、聴きたくない曲や聴けない曲もどんどん変わっていく。名曲と思っている歌でも、その状況によっては聴きたくなかったり、聴けなかったりする。抽象的な歌詞の歌を聴いたときなんかは特に、自分の心境をそこに当てはめたりして、物思いにふけることもある。それは何とも都合の良い当てはめ方で、同じ曲でも違う心境で聴けば違うように当てはめる。歌に後押しされた時のパワーは絶大。まるで世の中が自分を正しいと言ってくれているようで、心強さが増していく。逆に、悲しい時なんかはその悲しさが煽られ、どうしようもない気持ちになる。曲を聴いてそういう気持ちになる時は、一時的に「その歌が一番似合う人」になっているような気がして、「その歌は自分のためにある」とまで思ってしまう。どんな状況でも、それが少し気持ちいい。最近、そんなことを思わせてくれた歌をご紹介します。


家族の風景(ハナレグミ)
温度を感じられる曲。激しさはなくしっとりした曲調なのですが、限りない暖かさを感じます。笑顔の絶えない、落ち着いたやさしい家庭が頭の中に浮かんでくる。じっくり煮込んだカレーのような、コクがあって深い愛情のある家庭って感じ。

イメージとしては、どこにでもある昭和の家庭。リビングではなく“お茶の間”がそこにあって、狭くて家族がすぐ見える家庭。淡々としていて何の特徴もないありふれた家族だけど、そこにはあたたかい愛情があって、根付いた心がある。そんなシーンがイメージされます。何が幸せかは人によって違うけど、これはその幸せの形の大きなひとつだと感じました。何気ない日常の風景がどれだけ大切で幸せなことなのか、この曲は歌っています。

永積タカシさんはこのハナレグミで「何気ない日常」について、心にするっと入り込む曲を届けてくれています。そこにはスーパーバタードッグのファンキーな雰囲気とはまったく異なる、“素”の彼がいるように感じる。この「家族の風景」は、彼の曲の中でも特に心地良く、心に入って来易いと感じている曲。家族を持つ人がこの曲を聴くと、さらに想うことがあるんでしょうね。


tourist on the 未来'n(クラムボン)
軽快で気持ちが軽くなる曲。気分が重くなったとき、この曲は気持ちをどんどん軽くさせ、良い意味で「なるようになる」って思わせてくれます。自分の置かれている状況に照らし合わせ、前に進んでいこうと思うことができる曲。車にまつわる単語が多く出てくるので、運転中は特に自分と歌がマッチしてる感じがします。

ボーカルの原田郁子さんの歌声はなんかフワフワしていて、最初に聴いた時は落ち着かない印象があったんですが、聴いていると離れられない状態に。落ち着くことができて心拍数が安定します。「キレイな声」というよりも、「エエ声」って感じ。先日、京都造形芸術大学の学園祭でライブを見てきましたが、初めから終わりまで感動しっぱなし。違う世界に連れて行かれたようでした。

タイトルにも入っているように、この曲では「未来」という言葉が何度か出てきます。この「未来」って言葉には、聞くだけでパワーが沸いてくるような不思議な力を感じます。その言葉と彼女の声とが反応して、強い力を生み出しているような気がする。だから悩んだりしたら聴いてしまうんかなあ。「ハピネスをフレーズで」って思わず口ずさんでしまう。


ハイウェイ(くるり)
くるりの中で最も好きな曲。ぶっきらぼうな歌詞の中にも暖かみがあって、何か物事を“許す”気にさせてくれる。これは映画「ジョゼと虎と魚たち」の主題歌だったんですが、暖かくて切ないストーリーにかなり合っていたように思いました。勢いで突っ走ってしまう若者の心境を代弁しているようで、自分の中にある甘い部分とかダメな部分を良い意味で許せてしまいます。

くるりはハナレグミ、クラムボンと似た、“浮遊感”を感じることができるバンド。季節や景色、生活の良きBGMとしてハマり、バックでずーっと流したまま生活していたい感じがします。ごちゃごちゃした景色の中でも、彼らの曲を聴くとそこから自分を綺麗で居心地の良い世界に連れ出してくれそう。素朴なアレンジで単純なメロディーなのに、飽きが来ないのはそういう感じがあるからだと思います。

この曲は、忙しい毎日の中にポツンと訪れた休日に、チャリンコでもこぎながらボーっと鼻歌で歌いたい曲。何週間に1回は、そんな一日が必要だと思う。激しくストレスを発散させるのも良いですが、ゆっくりとストレスを発散することもまた違う良さがある。この曲はそんな一日を演出してくれる、すばらしい名曲です。