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先日、電車に乗っていると、中学生らしき男子2人の会話が聞こえてきた。

「あ~授業ダルいな~」
「あんなん何の役に立つんや?」
「数学とか古典なんか、ゼッタイ将来に必要ないで!」
「ホンマやな!」


ベタな会話である。思えば私も子どもの頃(ていうか大学を卒業するまで)、彼らとほぼ同じような会話をしたものだ。もちろん、勉強をしなければ進学・進級できないことは分かっていたし、勉強ができる・できないである程度将来が変わってしまうことも感じていた。しかし、勉強の辛さから一時的に逃げるため、そして志望する進路に進めなかった場合の慰めとして、「勉強なんて将来の役に立たない」という考えを持とうとした。これは今の学生にも当てはまることだろう。

確かに学生時代に学ぶことは、将来仕事で必要になることがあまりない。簡単な計算ならパソコンが瞬時にやってくれるし、サイン・コサイン・タンジェントなんてものを仕事で使うことなんてまずあり得ない。古典や化学なんて、教師や教授、科学者、研究員とかにならない限り使うことがない。英語に関しては将来必要となってくる場合も多いだろうが、必要となってくるのはこの科目ぐらい。そこそこ英語が得意だからといって、英語を使う仕事をめざすわけでもなく、「得意な科目」と「やりたいこと」は別な人が多い。少なくとも私の周りはそんな人がほとんどだった。では勉強は何のためにあるのか?細かいことを言い出すと、その結論に値することは色々あるだろう。しかし私の中には一つの結論が大きく存在している。

それは、
物事を理解し問題解決できる能力を身につけ、社会から評価されるため
である。

さっきも書いたように、学校で勉強することの多くは社会で直接役に立たない。しかし、子どものころから経済学やマーケティング論、労使関係論や統計学を学ばせても頭に入るはずもない(入るヤツもたまにいるが)。それならば直接役には立たなくとも、物事を理解し問題を解決する能力・習慣を身につけるため、国語や算数、理科、社会を学ばそう。そういう考えである。極端に言うと、その年齢の頭脳レベルにあった内容なら何でも良いのだ。『物事を理解する』→『問題を解決する』という流れは勉強も仕事も同じ。勉強と仕事ではその内容が違うだけで、結局やることは同じなのだ。そしてその能力を身につけるためにすることは「習慣づける」「努力する」こと。決して「頭を良くすること」ではない。さらに、様々なタイプの物事を理解することによって、どんなジャンルの仕事にもある程度対応できる能力を身につけることができる。だから学校には多くの科目が用意されているのだ。

そして勉強することにより、社会に「目標に向かって努力できる人間だ」と評価される。これは就職活動も同じである。就職活動ではたまに、私服で現れ、言葉遣いもテキトーなヤツを見かける。彼らは「個性的な自分」をアピールし目立とうという人だったり、「ありのままの自分を受け入れてくれる企業に入りたい」という考えだったりする。しかし、これでは企業に「コイツは目標(企業に評価してもらうこと)に対して準備を怠っている人間だ」と思われる。中には「コイツおもろい!」と思う企業もあるのだろうが、ほとんどの企業からは「できないヤツ」として評価される。本人はそれでも別に良いと思っているのかもしれないが、やはりリスクは大きい。この世の中で生きていくには、他人からの評価もかなり重要な要素である。少なくとも現代社会でフツーに就職する気なのだとしたら、意味が分からなくてもネクタイを締め、ウソでもいいから礼儀正しい言葉遣いで「しっかり準備して就職活動を頑張っています」という姿勢をアピールすべきだ。企業はその姿を本人のありのままの姿とは思わない。ただ「目標に向かって努力できる人間だ」と思う。それが“評価”というものだ。

かなり話は逸れたが、勉強もこれと同じ。実際に勉強する内容はどうでもよく、重要なのは「目標に向かって努力できるかどうか」。そこには具体的な勉強内容が社会で役に立つかどうかなんて関係ないのだ。やりたいことがない人は特に、とりあえず現在の自分の評価の基準になるもの(=勉強)をするべきである。

そんなことを私は電車の中で考えていた。
でもこれは今だから考えられること。
あの頃の自分に言ったとしても、恐らく無駄だったろう。
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2006.01.26 | 世の中 | トラックバック(0) | コメント(6) |

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