2006-01.26 Thu勉強は何のためにある?[世の中]
Time[23:34] Comment[6] Trackback[0]
先日、電車に乗っていると、中学生らしき男子2人の会話が聞こえてきた。
「あ〜授業ダルいな〜」
「あんなん何の役に立つんや?」
「数学とか古典なんか、ゼッタイ将来に必要ないで!」
「ホンマやな!」
ベタな会話である。思えば私も子どもの頃(ていうか大学を卒業するまで)、彼らとほぼ同じような会話をしたものだ。もちろん、勉強をしなければ進学・進級できないことは分かっていたし、勉強ができる・できないである程度将来が変わってしまうことも感じていた。しかし、勉強の辛さから一時的に逃げるため、そして志望する進路に進めなかった場合の慰めとして、「勉強なんて将来の役に立たない」という考えを持とうとした。これは今の学生にも当てはまることだろう。
確かに学生時代に学ぶことは、将来仕事で必要になることがあまりない。簡単な計算ならパソコンが瞬時にやってくれるし、サイン・コサイン・タンジェントなんてものを仕事で使うことなんてまずあり得ない。古典や化学なんて、教師や教授、科学者、研究員とかにならない限り使うことがない。英語に関しては将来必要となってくる場合も多いだろうが、必要となってくるのはこの科目ぐらい。そこそこ英語が得意だからといって、英語を使う仕事をめざすわけでもなく、「得意な科目」と「やりたいこと」は別な人が多い。少なくとも私の周りはそんな人がほとんどだった。では勉強は何のためにあるのか?細かいことを言い出すと、その結論に値することは色々あるだろう。しかし私の中には一つの結論が大きく存在している。
それは、
物事を理解し問題解決できる能力を身につけ、社会から評価されるため
である。
さっきも書いたように、学校で勉強することの多くは社会で直接役に立たない。しかし、子どものころから経済学やマーケティング論、労使関係論や統計学を学ばせても頭に入るはずもない(入るヤツもたまにいるが)。それならば直接役には立たなくとも、物事を理解し問題を解決する能力・習慣を身につけるため、国語や算数、理科、社会を学ばそう。そういう考えである。極端に言うと、その年齢の頭脳レベルにあった内容なら何でも良いのだ。『物事を理解する』→『問題を解決する』という流れは勉強も仕事も同じ。勉強と仕事ではその内容が違うだけで、結局やることは同じなのだ。そしてその能力を身につけるためにすることは「習慣づける」「努力する」こと。決して「頭を良くすること」ではない。さらに、様々なタイプの物事を理解することによって、どんなジャンルの仕事にもある程度対応できる能力を身につけることができる。だから学校には多くの科目が用意されているのだ。
そして勉強することにより、社会に「目標に向かって努力できる人間だ」と評価される。これは就職活動も同じである。就職活動ではたまに、私服で現れ、言葉遣いもテキトーなヤツを見かける。彼らは「個性的な自分」をアピールし目立とうという人だったり、「ありのままの自分を受け入れてくれる企業に入りたい」という考えだったりする。しかし、これでは企業に「コイツは目標(企業に評価してもらうこと)に対して準備を怠っている人間だ」と思われる。中には「コイツおもろい!」と思う企業もあるのだろうが、ほとんどの企業からは「できないヤツ」として評価される。本人はそれでも別に良いと思っているのかもしれないが、やはりリスクは大きい。この世の中で生きていくには、他人からの評価もかなり重要な要素である。少なくとも現代社会でフツーに就職する気なのだとしたら、意味が分からなくてもネクタイを締め、ウソでもいいから礼儀正しい言葉遣いで「しっかり準備して就職活動を頑張っています」という姿勢をアピールすべきだ。企業はその姿を本人のありのままの姿とは思わない。ただ「目標に向かって努力できる人間だ」と思う。それが“評価”というものだ。
かなり話は逸れたが、勉強もこれと同じ。実際に勉強する内容はどうでもよく、重要なのは「目標に向かって努力できるかどうか」。そこには具体的な勉強内容が社会で役に立つかどうかなんて関係ないのだ。やりたいことがない人は特に、とりあえず現在の自分の評価の基準になるもの(=勉強)をするべきである。
そんなことを私は電車の中で考えていた。
でもこれは今だから考えられること。
あの頃の自分に言ったとしても、恐らく無駄だったろう。
「あ〜授業ダルいな〜」
「あんなん何の役に立つんや?」
「数学とか古典なんか、ゼッタイ将来に必要ないで!」
「ホンマやな!」
ベタな会話である。思えば私も子どもの頃(ていうか大学を卒業するまで)、彼らとほぼ同じような会話をしたものだ。もちろん、勉強をしなければ進学・進級できないことは分かっていたし、勉強ができる・できないである程度将来が変わってしまうことも感じていた。しかし、勉強の辛さから一時的に逃げるため、そして志望する進路に進めなかった場合の慰めとして、「勉強なんて将来の役に立たない」という考えを持とうとした。これは今の学生にも当てはまることだろう。
確かに学生時代に学ぶことは、将来仕事で必要になることがあまりない。簡単な計算ならパソコンが瞬時にやってくれるし、サイン・コサイン・タンジェントなんてものを仕事で使うことなんてまずあり得ない。古典や化学なんて、教師や教授、科学者、研究員とかにならない限り使うことがない。英語に関しては将来必要となってくる場合も多いだろうが、必要となってくるのはこの科目ぐらい。そこそこ英語が得意だからといって、英語を使う仕事をめざすわけでもなく、「得意な科目」と「やりたいこと」は別な人が多い。少なくとも私の周りはそんな人がほとんどだった。では勉強は何のためにあるのか?細かいことを言い出すと、その結論に値することは色々あるだろう。しかし私の中には一つの結論が大きく存在している。
それは、
物事を理解し問題解決できる能力を身につけ、社会から評価されるため
である。
さっきも書いたように、学校で勉強することの多くは社会で直接役に立たない。しかし、子どものころから経済学やマーケティング論、労使関係論や統計学を学ばせても頭に入るはずもない(入るヤツもたまにいるが)。それならば直接役には立たなくとも、物事を理解し問題を解決する能力・習慣を身につけるため、国語や算数、理科、社会を学ばそう。そういう考えである。極端に言うと、その年齢の頭脳レベルにあった内容なら何でも良いのだ。『物事を理解する』→『問題を解決する』という流れは勉強も仕事も同じ。勉強と仕事ではその内容が違うだけで、結局やることは同じなのだ。そしてその能力を身につけるためにすることは「習慣づける」「努力する」こと。決して「頭を良くすること」ではない。さらに、様々なタイプの物事を理解することによって、どんなジャンルの仕事にもある程度対応できる能力を身につけることができる。だから学校には多くの科目が用意されているのだ。
そして勉強することにより、社会に「目標に向かって努力できる人間だ」と評価される。これは就職活動も同じである。就職活動ではたまに、私服で現れ、言葉遣いもテキトーなヤツを見かける。彼らは「個性的な自分」をアピールし目立とうという人だったり、「ありのままの自分を受け入れてくれる企業に入りたい」という考えだったりする。しかし、これでは企業に「コイツは目標(企業に評価してもらうこと)に対して準備を怠っている人間だ」と思われる。中には「コイツおもろい!」と思う企業もあるのだろうが、ほとんどの企業からは「できないヤツ」として評価される。本人はそれでも別に良いと思っているのかもしれないが、やはりリスクは大きい。この世の中で生きていくには、他人からの評価もかなり重要な要素である。少なくとも現代社会でフツーに就職する気なのだとしたら、意味が分からなくてもネクタイを締め、ウソでもいいから礼儀正しい言葉遣いで「しっかり準備して就職活動を頑張っています」という姿勢をアピールすべきだ。企業はその姿を本人のありのままの姿とは思わない。ただ「目標に向かって努力できる人間だ」と思う。それが“評価”というものだ。
かなり話は逸れたが、勉強もこれと同じ。実際に勉強する内容はどうでもよく、重要なのは「目標に向かって努力できるかどうか」。そこには具体的な勉強内容が社会で役に立つかどうかなんて関係ないのだ。やりたいことがない人は特に、とりあえず現在の自分の評価の基準になるもの(=勉強)をするべきである。
そんなことを私は電車の中で考えていた。
でもこれは今だから考えられること。
あの頃の自分に言ったとしても、恐らく無駄だったろう。
2006-01.21 Satクジラはなぜ捕ってはいけないのか[世の中]
Time[23:01] Comment[16] Trackback[0]
先日、新しく引っ越した天神橋筋六丁目付近で晩飯を食べようと、やや大衆的な雰囲気が漂う和食店に入った。冷蔵庫に並ぶおかずを選んでいると、クジラのベーコンなるものを見つけた。「あっ、懐かしい!」と思わずそれを手に取ってしまったのだが、実際私はそんなにクジラを食したことがない。というのも、私が小学生の頃から、クジラは世界的に捕獲することを禁止されていたのだ。今では家庭の食卓から消え、入手さえ困難な状態なのだが、その頃までは少なからずクジラを食することもあった(と思う)。そういう意味で私は思わず「懐かしい」と言ってしまった。そんなに馴染みはないけどなんとなく懐かしい、そういう感覚である。
私がまだ小学生にもなっていない1982年、IWC(国際補鯨委員会)の採択により、補鯨量の多かった日本は商業補鯨モラトリアム(一時停止)を余儀なくされた。実際に補鯨できなくなったのは1986年からで、これ以降市場に出まわる鯨肉は激減。さらに1994年にはサンクチュアリ(鯨の聖域)採択が加わり、南氷洋の鯨が一頭も捕ることが許されなくなった。お金のない人が豚肉や牛肉の代用品として利用していた時代はもう跡形もなく消え去り、現在では貴重で高級な珍味として扱われている。
ではなぜ、補鯨してはいけなくなったのか?
その理由はいったい何なのか?
グリンピースなどNGOの自然保護・動物愛護団体が主張するのは、言わば「クジラがかわいそう」「絶滅しちゃう」的な感情的な言い分。これは補鯨禁止の本当の原因ではないだろう。もちろん、クジラの数が減少していたのは事実であり、保護のための一時的な補鯨禁止も当時を考えるとまあまあ納得できる。しかし、20年前と今では間違いなく状況が違っている。アメリカ、イギリス、ニュージーランドなどの補鯨反対国はそろって「クジラは絶滅の危機にある」と、クジラ全種をひとくくりにして絶滅の危機を訴えているが、実際は種によって絶滅どころか増えているクジラもあり、特に日本が主に補鯨を行っていたミンククジラやニタリクジラ、マッコウクジラは乱獲が行われる以前の量にまで増えているという。クジラは人間の3〜5倍の漁獲を行う生き物。クジラの増加により海の魚が食い荒らされ、漁師も漁業に支障が出て困っているそうだ。世界の人口増加による食糧不足も加えて考えると、補鯨を一部再開するべきだという結論しか思い当たらない。
クジラは「捨てるところがない」とまでいわれる動物で、肉以外にも多くの部分が有効利用されてきた。中でも代表的なのが「鯨油」。クジラから出る油はさまざまな製品の原料や農薬、塗料、石油の代用品、爆発物、さらには自動車のオイルや潜水艦の位置測定システムなど、多岐にわたり使用された。特に欧米では鯨油の需要が高く、補鯨の目的は鯨油生産のためだけ。鯨から鯨油を絞り出し、残った部分はなんと海に廃棄したのだ。欧米の乱獲はとことん続けられ、どんどんクジラの数が減少していった。もちろん、日本をはじめとする食用補鯨国も“乱獲”と呼べるくらいの激しい補鯨を行ったのだが、欧米のそれは日本を凌いでいた(らしい)。これが何を意味するかというと、クジラが絶滅の危機にさらされた原因は、現在補鯨反対国となっている欧米諸国も含まれているということだ。そして現在、奴らは打って変わって補鯨に反対。クジラの絶滅危機を一方的に食用補鯨国の責任にしている。なんとも汚い奴らである。
この背景には、経済的な隠れた理由があった。
日本は世界で2番目の経済大国であり、簡単に言うと「カネを持ってる国」だ。そのため、日本は多くの国から狙われてきた。その一つがこの補鯨反対だ。宗教的思想から数々の環境団体が結成され、非科学的な意味合いのキャンペーンが世界中に蔓延。環境団体と反補鯨国はカネと票でつながっていたので、不自然なくらい活発な活動を行った。それに洗脳され、現実も知らぬまま「クジラを守れ!」などと言い出す人(日本人を含む)が増えていったのである。欧米諸国の補鯨目的は鯨油のみであり、すでに石油製品がその代用を果たしつつあったので、補鯨は奴らにとって必要のないものとなっていた。欧米諸国が日本を攻撃するこの上ない状況である。結果、世界でも有数の鯨消費国であった日本の食糧自給率は補鯨モラトリアムによりどんどん低下し、海外からの輸入(特にアメリカの牛肉)に頼らざるを得なくなった。現在、日本は食糧供給量の半分以上を輸入に頼っている状況。言ってみれば欧米諸国の“日本つぶし”が成功したのである。世の中って恐ろしいね。
鳥インフルエンザの流行で鶏肉が、狂牛病の発生で牛肉が問題になっている現在。急増する世界の人口による食糧不足問題も考えると、補鯨を再開させない理由はもはや前述のバカげた理由しか見あたらない。補鯨は日本だけの問題ではなく、世界に、そして人類に関わる大きな問題なのだ。
人類の未来のためにも、ぜひとも補鯨活動を再開させようじゃないか。
てゆうかさせろ!
と思っていた矢先に米国産牛肉輸入再停止のニュースが。
こりゃ補鯨再開なんて、まだまだ先やろな・・・。
私がまだ小学生にもなっていない1982年、IWC(国際補鯨委員会)の採択により、補鯨量の多かった日本は商業補鯨モラトリアム(一時停止)を余儀なくされた。実際に補鯨できなくなったのは1986年からで、これ以降市場に出まわる鯨肉は激減。さらに1994年にはサンクチュアリ(鯨の聖域)採択が加わり、南氷洋の鯨が一頭も捕ることが許されなくなった。お金のない人が豚肉や牛肉の代用品として利用していた時代はもう跡形もなく消え去り、現在では貴重で高級な珍味として扱われている。
ではなぜ、補鯨してはいけなくなったのか?
その理由はいったい何なのか?
グリンピースなどNGOの自然保護・動物愛護団体が主張するのは、言わば「クジラがかわいそう」「絶滅しちゃう」的な感情的な言い分。これは補鯨禁止の本当の原因ではないだろう。もちろん、クジラの数が減少していたのは事実であり、保護のための一時的な補鯨禁止も当時を考えるとまあまあ納得できる。しかし、20年前と今では間違いなく状況が違っている。アメリカ、イギリス、ニュージーランドなどの補鯨反対国はそろって「クジラは絶滅の危機にある」と、クジラ全種をひとくくりにして絶滅の危機を訴えているが、実際は種によって絶滅どころか増えているクジラもあり、特に日本が主に補鯨を行っていたミンククジラやニタリクジラ、マッコウクジラは乱獲が行われる以前の量にまで増えているという。クジラは人間の3〜5倍の漁獲を行う生き物。クジラの増加により海の魚が食い荒らされ、漁師も漁業に支障が出て困っているそうだ。世界の人口増加による食糧不足も加えて考えると、補鯨を一部再開するべきだという結論しか思い当たらない。
クジラは「捨てるところがない」とまでいわれる動物で、肉以外にも多くの部分が有効利用されてきた。中でも代表的なのが「鯨油」。クジラから出る油はさまざまな製品の原料や農薬、塗料、石油の代用品、爆発物、さらには自動車のオイルや潜水艦の位置測定システムなど、多岐にわたり使用された。特に欧米では鯨油の需要が高く、補鯨の目的は鯨油生産のためだけ。鯨から鯨油を絞り出し、残った部分はなんと海に廃棄したのだ。欧米の乱獲はとことん続けられ、どんどんクジラの数が減少していった。もちろん、日本をはじめとする食用補鯨国も“乱獲”と呼べるくらいの激しい補鯨を行ったのだが、欧米のそれは日本を凌いでいた(らしい)。これが何を意味するかというと、クジラが絶滅の危機にさらされた原因は、現在補鯨反対国となっている欧米諸国も含まれているということだ。そして現在、奴らは打って変わって補鯨に反対。クジラの絶滅危機を一方的に食用補鯨国の責任にしている。なんとも汚い奴らである。
この背景には、経済的な隠れた理由があった。
日本は世界で2番目の経済大国であり、簡単に言うと「カネを持ってる国」だ。そのため、日本は多くの国から狙われてきた。その一つがこの補鯨反対だ。宗教的思想から数々の環境団体が結成され、非科学的な意味合いのキャンペーンが世界中に蔓延。環境団体と反補鯨国はカネと票でつながっていたので、不自然なくらい活発な活動を行った。それに洗脳され、現実も知らぬまま「クジラを守れ!」などと言い出す人(日本人を含む)が増えていったのである。欧米諸国の補鯨目的は鯨油のみであり、すでに石油製品がその代用を果たしつつあったので、補鯨は奴らにとって必要のないものとなっていた。欧米諸国が日本を攻撃するこの上ない状況である。結果、世界でも有数の鯨消費国であった日本の食糧自給率は補鯨モラトリアムによりどんどん低下し、海外からの輸入(特にアメリカの牛肉)に頼らざるを得なくなった。現在、日本は食糧供給量の半分以上を輸入に頼っている状況。言ってみれば欧米諸国の“日本つぶし”が成功したのである。世の中って恐ろしいね。
鳥インフルエンザの流行で鶏肉が、狂牛病の発生で牛肉が問題になっている現在。急増する世界の人口による食糧不足問題も考えると、補鯨を再開させない理由はもはや前述のバカげた理由しか見あたらない。補鯨は日本だけの問題ではなく、世界に、そして人類に関わる大きな問題なのだ。
人類の未来のためにも、ぜひとも補鯨活動を再開させようじゃないか。
てゆうかさせろ!
と思っていた矢先に米国産牛肉輸入再停止のニュースが。
こりゃ補鯨再開なんて、まだまだ先やろな・・・。
2006-01.04 Wedもしこの世にテレビがなかったら[音楽]
Time[21:02] Comment[4] Trackback[1]
先日、久しぶりにNHK紅白歌合戦というものを観た。相次ぐ不祥事や受信料支払い拒否の問題など、悪い話が絶えなかったNHKは、この紅白でどう巻き返しを図るのだろう。と私は密かに楽しみにしていた。フタを開けてみると、話題の多い歌手・司会者・審査員の起用や数々のお笑い芸人の登場など、あの手この手で盛り上げる演出。正直なかなか楽しかった。しかし終わってから思うと、記憶に残ったのは数々の演出やトラブルのことくらい。肝心の歌手や歌についてはほとんど心に残っていなかった。恐らく紅白歌合戦なんて毎年こういうモンなのだろう、と変に自分の中で納得してしまったのだが、果たしてどうなのか。
紅白歌合戦に限らず、近年の音楽業界は多様化が進みすぎている気がしてならない。「すばらしいメロディー」「抜群の歌唱力」「心に響く歌詞」などという、歌そのものにある要素だけでなく、「個性的なビジュアル」「高いエンタテインメント性」「強烈なキャラクター」「番組タイアップ」「企画モノ」など、歌以外の要素で売れる・売れないが左右されている状況にある。CDがあまり売れなくなり、アルバムはDVDとセットで販売するのが当たり前。「聞く音楽」から「見て感じる音楽」が多くなっている。これも時代の流れだと言ってしまえばそれまでだが、やはり歌手やアーティストは歌だけで勝負してほしい、という思いが私にはある。今回の紅白歌合戦の出演者を見てみても、その流れにマッチして出演している歌手が多かった。歌そのものにある要素のすばらしさで出演している歌手なんて半分以下。ゴリエなんか話題づくり以外の何ものでもない。こんな状態では、実力のある歌手やアーティストも売れるために“キャラづくり”への階段を上り始めてしまい、肝心の歌を極めようとしない方向へ行ってしまいかねない。
私がよく考えることがある。もしこの世にテレビがなかったら、音楽を聞ける媒体がラジオだけだったら、現在の日本の音楽業界はどうなっているだろう。“エロカッコイイ”で売り出し中のあの人も、ファッションなどで若者女性からカリスマ的な人気を誇るあの人も、男前ばかりを集めたあのグループも、今よりも売れないどころか、音楽界にいるのかどうかすらも怪しいところだ。そうなれば恐らく、歌の本質を極めようと努力している歌手やアーティストが中心にブレイクする世の中になっているだろう。現在の音楽業界は、視聴者に「歌の本質とは何か」をわかりにくくさせている状態にあるのではないだろうか。
話は少し逸れるが、最近のお笑い番組はいちいちテロップが出る。お笑い好きな視聴者はこのテロップをかなりうざったく感じるのだが、何も考えていない視聴者はこのテロップのお陰(?)で「どういうネタをしているか」「どこがオチなのか」「どこで笑ったらいいのか」を感じ取っている。言ってみれば“感受もやしっ子”なのだ。そんなテロップが当たり前になると、テロップなしでは話の流れのタイミングを掴めない、インプット下手クソ人間が増えてしまう。逆に言えば、そんな視聴者が多いから、テレビ局はテロップを入れたがるのだ。
現在の音楽業界もこれと似たような状況だと私は思う。ビジュアル、キャラクター、タイアップなど、本質とは違う要素で売れるアーティストが多くなっている。すると、リスナーはメロディー、歌唱力、歌詞などの「歌の本質」が見えにくくなる。見た目に頼り感受性の低い『インプット下手クソ人間』への道が始まってしまう。歌詞やメロディーだけでは「すばらしい歌」であることを判断できず、その周りにあるキャラやビジュアルに頼ってしまうのだ。逆に言えば、そういうリスナーが多いから、レコード会社はビジュアルやキャラを濃くしたがるのだ。“ビジュアル系”なんてまさに象徴的。「俺たちは音楽の本質じゃなく、見た目だけで勝負しますよ〜」と言っているようなモンである。そんなバンドのCDを買う人の気持ちが、私には全くわからない(DVDなら二百歩譲ってわかるが)。
「このままでは音楽業界がダメになる」と思っているわけでは別にない。実際、音楽の本質がすばらしい(と私が感じる)歌手やアーティストも多く、誰が売れようが、誰がテレビに出ようが別に関係ない。音楽は好きずきである。ただ、『インプット下手クソ人間』が増えることはあまり良くない傾向であると思う。音楽の本質はやはりビジュアルやキャラクターではない。それをわからない人が多くなり続けては、日本の文化レベルにも支障が出てしまう。こうなったら思い切って、2006年の1年間はテレビ禁止条例でも制定し、施行してみてはいかがだろう。私は推進します。
紅白歌合戦に限らず、近年の音楽業界は多様化が進みすぎている気がしてならない。「すばらしいメロディー」「抜群の歌唱力」「心に響く歌詞」などという、歌そのものにある要素だけでなく、「個性的なビジュアル」「高いエンタテインメント性」「強烈なキャラクター」「番組タイアップ」「企画モノ」など、歌以外の要素で売れる・売れないが左右されている状況にある。CDがあまり売れなくなり、アルバムはDVDとセットで販売するのが当たり前。「聞く音楽」から「見て感じる音楽」が多くなっている。これも時代の流れだと言ってしまえばそれまでだが、やはり歌手やアーティストは歌だけで勝負してほしい、という思いが私にはある。今回の紅白歌合戦の出演者を見てみても、その流れにマッチして出演している歌手が多かった。歌そのものにある要素のすばらしさで出演している歌手なんて半分以下。ゴリエなんか話題づくり以外の何ものでもない。こんな状態では、実力のある歌手やアーティストも売れるために“キャラづくり”への階段を上り始めてしまい、肝心の歌を極めようとしない方向へ行ってしまいかねない。
私がよく考えることがある。もしこの世にテレビがなかったら、音楽を聞ける媒体がラジオだけだったら、現在の日本の音楽業界はどうなっているだろう。“エロカッコイイ”で売り出し中のあの人も、ファッションなどで若者女性からカリスマ的な人気を誇るあの人も、男前ばかりを集めたあのグループも、今よりも売れないどころか、音楽界にいるのかどうかすらも怪しいところだ。そうなれば恐らく、歌の本質を極めようと努力している歌手やアーティストが中心にブレイクする世の中になっているだろう。現在の音楽業界は、視聴者に「歌の本質とは何か」をわかりにくくさせている状態にあるのではないだろうか。
話は少し逸れるが、最近のお笑い番組はいちいちテロップが出る。お笑い好きな視聴者はこのテロップをかなりうざったく感じるのだが、何も考えていない視聴者はこのテロップのお陰(?)で「どういうネタをしているか」「どこがオチなのか」「どこで笑ったらいいのか」を感じ取っている。言ってみれば“感受もやしっ子”なのだ。そんなテロップが当たり前になると、テロップなしでは話の流れのタイミングを掴めない、インプット下手クソ人間が増えてしまう。逆に言えば、そんな視聴者が多いから、テレビ局はテロップを入れたがるのだ。
現在の音楽業界もこれと似たような状況だと私は思う。ビジュアル、キャラクター、タイアップなど、本質とは違う要素で売れるアーティストが多くなっている。すると、リスナーはメロディー、歌唱力、歌詞などの「歌の本質」が見えにくくなる。見た目に頼り感受性の低い『インプット下手クソ人間』への道が始まってしまう。歌詞やメロディーだけでは「すばらしい歌」であることを判断できず、その周りにあるキャラやビジュアルに頼ってしまうのだ。逆に言えば、そういうリスナーが多いから、レコード会社はビジュアルやキャラを濃くしたがるのだ。“ビジュアル系”なんてまさに象徴的。「俺たちは音楽の本質じゃなく、見た目だけで勝負しますよ〜」と言っているようなモンである。そんなバンドのCDを買う人の気持ちが、私には全くわからない(DVDなら二百歩譲ってわかるが)。
「このままでは音楽業界がダメになる」と思っているわけでは別にない。実際、音楽の本質がすばらしい(と私が感じる)歌手やアーティストも多く、誰が売れようが、誰がテレビに出ようが別に関係ない。音楽は好きずきである。ただ、『インプット下手クソ人間』が増えることはあまり良くない傾向であると思う。音楽の本質はやはりビジュアルやキャラクターではない。それをわからない人が多くなり続けては、日本の文化レベルにも支障が出てしまう。こうなったら思い切って、2006年の1年間はテレビ禁止条例でも制定し、施行してみてはいかがだろう。私は推進します。
2006-01.02 Mon私が選ぶ2005年の漢字[世の中]
Time[15:54] Comment[0] Trackback[2]
毎年、年末になると『今年の漢字』なるものが日本漢字能力検定協会から発表される。日本国内で公募し、その年の日本の世相に合う漢字一文字を決定するというものだ。毎年思うのだが、選ばれる漢字一文字はなかなかセンスがあって好感が持てる。その1年をトータルで表現する場合もあれば、ある一つの出来事だけに焦点を当てる場合もある。そのさじ加減がなかなか絶妙だ。2003年の「虎」なんて、阪神タイガースの優勝にしか当てはまらない。この、時に無茶苦茶な選択のセンスが私は好きだ。どちらかというとマイナスな漢字が多く選ばれる傾向にあるのだが、その一文字からのさまざまな繋がりや、込められた皮肉などを考えると妙に納得してしまう。私が毎年楽しみにしていることの一つだ。
2005年の漢字は「愛」に決定したらしい。黒田慶樹さんと紀宮さんとの結婚や、愛・地球博の開催、女子卓球の福原愛ちゃんの中国での活躍があった・・・とニュースは報じている。あとは、あまり報道されなかったが「愛の大切さを感じることが多かった」「愛が足りない事件が多かった」との見方もあった。
う〜ん・・・なんかピンとこない、と思ったのは私だけではないだろう。確かに黒田夫妻は結婚したし、万博も開催された。卓球の愛ちゃんもそこそこ活躍した。しかし今年を表す出来事としては、な〜んか印象が弱い気がする。これは私が皇室に興味がなく、愛知万博にも足を運ばなかったからだけなのか。何か、プラスの意味をもつ漢字をむりやり選んだのではというような、妙な不信感すら起きてくる。恐らくこの決定は、未来への希望や期待の意味合いが強い決定なのではないだろうか。私がこの「愛」の理由として共感できたのは「愛が足りない事件が多かった」ことだけ。昨年はこの類の事件や事故が本当に多かった。だからこそもっとこの部分を掘り下げた漢字を選んでほしかった。
私が選ぶとすると、2005年の漢字は「嘘」。
人間の醜い嘘を、これほどまでに目にする機会が多かった年は今までなかったと言えよう。JR西日本脱線事故でのJR西側の発言、耐震強度偽装問題での各者の言い分、悪質リフォーム業者事件、明治安田生命の保険料不払い事件、ミンダナオ島での旧日本兵生存情報、駒大苫小牧高校の暴力事件隠し立てなど、2005年は人々の醜い嘘に振り回された1年であったように思える。恐らく人々は現在、このような嘘を減らすよう世の中に促しているのではなく、騙されないよう真意を見極め、身を守ろうと努力している状態にあるだろう。それは世の中に対する一種の「諦め」のようなものに思える。世の中を良くするのではなく、悪い世の中の被害者にならない努力をしていくのだ。この現実に、私は少し寂しさを感じている。
私の生活レベルで感じた「嘘」も多い。個人情報保護法案の施行により、個人情報流出への懸念がいっそう強まった。カラオケやボウリングの受付時に書かされる住所や電話番号では、多くの人が当たり前のように嘘の住所や電話番号を書いた。住所も電話番号も、時には名前にまで嘘をつかなければいけない世の中とは、果たして人々の目指した世の中なのだろうか。個人情報以外で言えば、ニュースや報道、テレビ番組を見たとき。どの情報を耳にしても、まず「ホンマか〜?」と不信な目で見てしまう。何もかも簡単には信用しないというスタンスの視聴者が多くなった。これは昨年起きたヤラセ問題やNHKの番組改編問題だけが原因ではなく、情報番組の増加や情報化社会で、番組や物事のウラ側を知る機会が多くなったからだろう。これも時代の流れなのか。
2005年はやはり、「嘘」をはじめとした悪いニュースが多かった1年だったと思う。なので2005年の漢字として選ばれた「愛」は、少しばかりフライングだったように思える。この「嘘」にまみれた世の中をしっかりと受け止め、自己防衛だけでなく「世の中を良くしよう」という人々の動きが活発になったとき、自然に「愛」を感じられる出来事が増えるはずだ。理想や希望だけでなく、実際に「愛」のある世の中になってはじめてこの漢字を1年を表す文字として選ぼうじゃないか。そんな年が早く来てほしい、そう思う年末年始であった。
2005年の漢字は「愛」に決定したらしい。黒田慶樹さんと紀宮さんとの結婚や、愛・地球博の開催、女子卓球の福原愛ちゃんの中国での活躍があった・・・とニュースは報じている。あとは、あまり報道されなかったが「愛の大切さを感じることが多かった」「愛が足りない事件が多かった」との見方もあった。
う〜ん・・・なんかピンとこない、と思ったのは私だけではないだろう。確かに黒田夫妻は結婚したし、万博も開催された。卓球の愛ちゃんもそこそこ活躍した。しかし今年を表す出来事としては、な〜んか印象が弱い気がする。これは私が皇室に興味がなく、愛知万博にも足を運ばなかったからだけなのか。何か、プラスの意味をもつ漢字をむりやり選んだのではというような、妙な不信感すら起きてくる。恐らくこの決定は、未来への希望や期待の意味合いが強い決定なのではないだろうか。私がこの「愛」の理由として共感できたのは「愛が足りない事件が多かった」ことだけ。昨年はこの類の事件や事故が本当に多かった。だからこそもっとこの部分を掘り下げた漢字を選んでほしかった。
私が選ぶとすると、2005年の漢字は「嘘」。
人間の醜い嘘を、これほどまでに目にする機会が多かった年は今までなかったと言えよう。JR西日本脱線事故でのJR西側の発言、耐震強度偽装問題での各者の言い分、悪質リフォーム業者事件、明治安田生命の保険料不払い事件、ミンダナオ島での旧日本兵生存情報、駒大苫小牧高校の暴力事件隠し立てなど、2005年は人々の醜い嘘に振り回された1年であったように思える。恐らく人々は現在、このような嘘を減らすよう世の中に促しているのではなく、騙されないよう真意を見極め、身を守ろうと努力している状態にあるだろう。それは世の中に対する一種の「諦め」のようなものに思える。世の中を良くするのではなく、悪い世の中の被害者にならない努力をしていくのだ。この現実に、私は少し寂しさを感じている。
私の生活レベルで感じた「嘘」も多い。個人情報保護法案の施行により、個人情報流出への懸念がいっそう強まった。カラオケやボウリングの受付時に書かされる住所や電話番号では、多くの人が当たり前のように嘘の住所や電話番号を書いた。住所も電話番号も、時には名前にまで嘘をつかなければいけない世の中とは、果たして人々の目指した世の中なのだろうか。個人情報以外で言えば、ニュースや報道、テレビ番組を見たとき。どの情報を耳にしても、まず「ホンマか〜?」と不信な目で見てしまう。何もかも簡単には信用しないというスタンスの視聴者が多くなった。これは昨年起きたヤラセ問題やNHKの番組改編問題だけが原因ではなく、情報番組の増加や情報化社会で、番組や物事のウラ側を知る機会が多くなったからだろう。これも時代の流れなのか。
2005年はやはり、「嘘」をはじめとした悪いニュースが多かった1年だったと思う。なので2005年の漢字として選ばれた「愛」は、少しばかりフライングだったように思える。この「嘘」にまみれた世の中をしっかりと受け止め、自己防衛だけでなく「世の中を良くしよう」という人々の動きが活発になったとき、自然に「愛」を感じられる出来事が増えるはずだ。理想や希望だけでなく、実際に「愛」のある世の中になってはじめてこの漢字を1年を表す文字として選ぼうじゃないか。そんな年が早く来てほしい、そう思う年末年始であった。