2006-05.25 Thu第2の東京タワーがど真ん中に突き刺さる日[世の中]
Time[22:45] Comment[2] Trackback[0]
「それはまるで、独楽の芯のようにきっちりと、ど真ん中に突き刺さっている。東京の中心に。日本の中心に。僕らの憧れの中心に。きれいに遠心力が伝わるよう、測った場所から伸びている。時々、暇を持て余した神様が空から手を垂らして、それをゼンマイのネジのようにぐるぐるまわす。ぐるぐる、ぎりぎり、僕らも回る」
上の文章は、昨年100万部を超える大ベストセラーとなったリリー・フランキー著『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』の冒頭部分である。東京タワーはこのように神秘的な描写をもって伝えられることが多く、都会の心を彩る大都会・東京の象徴として存在している。
「夜の東京でふと空を見上げると、そこには光り輝くオレンジ色の塔がある。騒々しく忙しい東京で暮らす人々に“自分自身”という存在を改めて教えてくれる存在かのように、東京タワーはじっとこっちを見つめている」 このような感覚を覚えさせてくれる存在だと、私はまだ見ぬ東京タワーをイメージしていた。しかし先日、生まれて初めて訪れた東京で、私の東京タワーに対するイメージは少し崩れてしまった。
東京の街で空を見上げると、東京タワーを隠すように高層ビルが群がっていた。こんな話をすると反感を食らうかもしれないが、実際、私は高層ビル群の中にある東京タワーを見て、「え?あれって東京タワーじゃなくて、どこにでもあるただのアンテナやろ?」と言ってしまった。それくらい、東京タワーはビルに埋もれていた。もちろん、東京タワーには歴史や伝統があり、人々の心の中で大きな存在となっているのは確かである。しかし、特に思い入れのない大阪人から見たとき、私のように意外な印象を受けることがあるのも事実なのだ。
大阪・梅田のシンボルだったマルビルの電光掲示板は2003年9月、惜しまれつつ姿を消した。現在は親会社の大和ハウス工業が広告を出し、電光掲示板を復活させているが、以前のような存在感には至っていない。そもそも、一度マルビルの電光掲示板が姿を消したのは、他でもない、周りにあるビルの相次ぐ高層化が原因なのだ。周りのビル群のせいで地上から電光掲示板が見えにくくなり、広告としての価値が下がったのである。現在は復活こそしたものの、名物だった回転文字は行っていない。これも梅田にあるビル群の高層化が原因である。
東京タワーやマルビルのような状況はやはり寂しいことであり、できることならその価値を維持しつづけるためにも周辺ビルの高層化を抑制してほしい。東京・銀座のような例もあるが、どこも同じようにはできないのが当然の現実だろう。それは建物だけに限らず、何でもそうなのではないだろうか。たとえ素晴らしいものであっても、周りも同じように素晴らしくなると(もしくは近いものになると)、それ自体の価値は下がってしまう。そうなった場合、寂しさを持ちつつも現実を見据えなければならない。そして可能ならば、さらに素晴らしいものを新たに創造していかなければならないのだ。
2011年、墨田区押上に“第2の東京タワー”なるものが誕生予定らしい。地上デジタル放送の全面移行に対応するためには、現状の東京タワーでは高さが足りないのだそうだ。これにより、“第1の東京タワー”の価値が少なからず何かしら下がってしまうのは必至だろう。もしかしたら“第1の東京タワー”に思い入れのある人は、このニュースにあまり良い印象を受けないかもしれない。しかし高さが足りないのは事実であり、第2の東京タワーを建設しなければならないのも現実だ。心の中に第1の東京タワーの価値を残しつつ、第2の東京タワーの存在を受け入れなければならない。
いつか、第2の東京タワーが東京の中心に、日本の中心に、僕らの憧れの中心に、独楽の芯のようにきっちりと、ど真ん中に突き刺さる日が来ることを信じて。
上の文章は、昨年100万部を超える大ベストセラーとなったリリー・フランキー著『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』の冒頭部分である。東京タワーはこのように神秘的な描写をもって伝えられることが多く、都会の心を彩る大都会・東京の象徴として存在している。
「夜の東京でふと空を見上げると、そこには光り輝くオレンジ色の塔がある。騒々しく忙しい東京で暮らす人々に“自分自身”という存在を改めて教えてくれる存在かのように、東京タワーはじっとこっちを見つめている」 このような感覚を覚えさせてくれる存在だと、私はまだ見ぬ東京タワーをイメージしていた。しかし先日、生まれて初めて訪れた東京で、私の東京タワーに対するイメージは少し崩れてしまった。
東京の街で空を見上げると、東京タワーを隠すように高層ビルが群がっていた。こんな話をすると反感を食らうかもしれないが、実際、私は高層ビル群の中にある東京タワーを見て、「え?あれって東京タワーじゃなくて、どこにでもあるただのアンテナやろ?」と言ってしまった。それくらい、東京タワーはビルに埋もれていた。もちろん、東京タワーには歴史や伝統があり、人々の心の中で大きな存在となっているのは確かである。しかし、特に思い入れのない大阪人から見たとき、私のように意外な印象を受けることがあるのも事実なのだ。
大阪・梅田のシンボルだったマルビルの電光掲示板は2003年9月、惜しまれつつ姿を消した。現在は親会社の大和ハウス工業が広告を出し、電光掲示板を復活させているが、以前のような存在感には至っていない。そもそも、一度マルビルの電光掲示板が姿を消したのは、他でもない、周りにあるビルの相次ぐ高層化が原因なのだ。周りのビル群のせいで地上から電光掲示板が見えにくくなり、広告としての価値が下がったのである。現在は復活こそしたものの、名物だった回転文字は行っていない。これも梅田にあるビル群の高層化が原因である。
東京タワーやマルビルのような状況はやはり寂しいことであり、できることならその価値を維持しつづけるためにも周辺ビルの高層化を抑制してほしい。東京・銀座のような例もあるが、どこも同じようにはできないのが当然の現実だろう。それは建物だけに限らず、何でもそうなのではないだろうか。たとえ素晴らしいものであっても、周りも同じように素晴らしくなると(もしくは近いものになると)、それ自体の価値は下がってしまう。そうなった場合、寂しさを持ちつつも現実を見据えなければならない。そして可能ならば、さらに素晴らしいものを新たに創造していかなければならないのだ。
2011年、墨田区押上に“第2の東京タワー”なるものが誕生予定らしい。地上デジタル放送の全面移行に対応するためには、現状の東京タワーでは高さが足りないのだそうだ。これにより、“第1の東京タワー”の価値が少なからず何かしら下がってしまうのは必至だろう。もしかしたら“第1の東京タワー”に思い入れのある人は、このニュースにあまり良い印象を受けないかもしれない。しかし高さが足りないのは事実であり、第2の東京タワーを建設しなければならないのも現実だ。心の中に第1の東京タワーの価値を残しつつ、第2の東京タワーの存在を受け入れなければならない。
いつか、第2の東京タワーが東京の中心に、日本の中心に、僕らの憧れの中心に、独楽の芯のようにきっちりと、ど真ん中に突き刺さる日が来ることを信じて。
2006-05.20 Satカオサンロードで感じた“世界”[世の中]
Time[12:14] Comment[1] Trackback[0]
ゴールデンウィークを使い、タイへ旅行に行ってきた。タイはこれで3回目なのだが、相変わらずバンコクは暑く、ごちゃごちゃしているのであまり好きではない。しかしタイは文化的観光やリゾート、グルメなど、さまざまな楽しみ方ができる国であり、世界的に人気のある観光地となっている。その一面を大きく感じられる所がバンコクの「カオサン通り」という場所に存在する。
カオサンに来るのは2回目だったが、前回同様、通りに入った瞬間から異様な雰囲気に襲われた。そこには日本人、アメリカ人、ヨーロッパ人、韓国人、中国人、イスラエル人、そしてもちろんタイ人など、数十ヶ国の人々がせわしなく過ごしている。「バックパッカーの聖地」と呼ばれるほど世界的にも有名な“人種のるつぼ”であり、昼間からビールを飲む人、道ばたに座り込んで延々と話をする人、露店で買い物をする人など、そこは自由に満ちあふれている。
そこで私が感じたのは、カオサンはもはや“タイ”ではなく、“世界”である、ということだ。もちろん、店員や住民はタイ人で、「タイに来ている」という現実意識は自分の中にあるのだが、すれ違う人がどの人種の人であっても「あっ、○○の国の人や」みたいに反応することはなかった(日本人は除く)。これはカオサンが持つ“魔法”のようなもので、例えるなら、オリンピックで世界各国のスポーツ選手が一つの国に集結することと同じような感覚なのではないだろうか。オリンピックで言うと、開催地がたまたまある一つの国だっただけで、そこにいる人種は様々すぎるくらい様々。“人”という視点で観れば、そこはもはや一つの国ではないのだろう。
私がその“世界”に行って感じたこと。それは、各国が集結して“世界”となることは、言葉では言えないパワーや魔法のようなものを産み出すことができる、ということだ。“タイ”に来ていたのならあまり感じられなかったかも知れない「大切なこと」を、より感じさせることができる。しかもそれは考えようとして考えるのではなく、瞬間的な感覚として考えることができる。私の場合のその「大切なこと」とは、きれいごとかも知れないが、簡単に言うと「世界平和」みたいな類のことだった。もちろん人によって感じることは様々なのだが、その“世界”が何か特別なものを人に感じさせることは間違いない。
タイに行ったあと、私は東京へ行った。両国で大相撲を観戦した私は、タイのカオサン通りのことをふと思い出した。アメリカ、ヨーロッパ、モンゴル、ロシア、南米、韓国など、昔に比べ明らかに外国人力士の数が増えてきている大相撲。それについて異論を唱える人もいるようだが、もし大相撲がカオサンのように“世界”を感じられる場になっていくのであれば、私は素晴らしいことだと思う。
カオサンに来るのは2回目だったが、前回同様、通りに入った瞬間から異様な雰囲気に襲われた。そこには日本人、アメリカ人、ヨーロッパ人、韓国人、中国人、イスラエル人、そしてもちろんタイ人など、数十ヶ国の人々がせわしなく過ごしている。「バックパッカーの聖地」と呼ばれるほど世界的にも有名な“人種のるつぼ”であり、昼間からビールを飲む人、道ばたに座り込んで延々と話をする人、露店で買い物をする人など、そこは自由に満ちあふれている。
そこで私が感じたのは、カオサンはもはや“タイ”ではなく、“世界”である、ということだ。もちろん、店員や住民はタイ人で、「タイに来ている」という現実意識は自分の中にあるのだが、すれ違う人がどの人種の人であっても「あっ、○○の国の人や」みたいに反応することはなかった(日本人は除く)。これはカオサンが持つ“魔法”のようなもので、例えるなら、オリンピックで世界各国のスポーツ選手が一つの国に集結することと同じような感覚なのではないだろうか。オリンピックで言うと、開催地がたまたまある一つの国だっただけで、そこにいる人種は様々すぎるくらい様々。“人”という視点で観れば、そこはもはや一つの国ではないのだろう。
私がその“世界”に行って感じたこと。それは、各国が集結して“世界”となることは、言葉では言えないパワーや魔法のようなものを産み出すことができる、ということだ。“タイ”に来ていたのならあまり感じられなかったかも知れない「大切なこと」を、より感じさせることができる。しかもそれは考えようとして考えるのではなく、瞬間的な感覚として考えることができる。私の場合のその「大切なこと」とは、きれいごとかも知れないが、簡単に言うと「世界平和」みたいな類のことだった。もちろん人によって感じることは様々なのだが、その“世界”が何か特別なものを人に感じさせることは間違いない。
タイに行ったあと、私は東京へ行った。両国で大相撲を観戦した私は、タイのカオサン通りのことをふと思い出した。アメリカ、ヨーロッパ、モンゴル、ロシア、南米、韓国など、昔に比べ明らかに外国人力士の数が増えてきている大相撲。それについて異論を唱える人もいるようだが、もし大相撲がカオサンのように“世界”を感じられる場になっていくのであれば、私は素晴らしいことだと思う。
2006-05.12 Friみんなでめざそう「上手い運転」[世の中]
Time[22:33] Comment[0] Trackback[0]
原油高による燃料費高騰がどんどんひどくなってきている。石油情報センターが先日発表した石油製品市況の週間動向調査によると、レギュラーガソリンの全国平均小売価格は1リットル当たり136円。安い頃の相場がいくらぐらいだったか忘れてしまうくらいの悪状況だ。こうなると、車に乗る人が減っていくだけでなく、車の乗り方までもが変わってきてしまう。急ブレーキや急発進、アイドリングを控えるなど、できるだけ燃費の良い運転をしようとする人が増えてくるのではないか。
「運転が上手い人は燃費が良い」という言葉を何度か聞いたことがある。この言葉の本意は先ほど書いたような「急ブレーキや急発進などを控える人」が、イコール「運転が上手い人」だということである。これについてはそれなりに納得しているのだが、「上手い運転」とはそれだけのことではないはず。では、そもそも「上手い運転」とはいったい何をもって言うのだろう。
大学時代、ある友人の運転する車に乗っていた私は、次のようなシーンを目の当たりにした。駐車スペースへの車庫入れはするどい動きで一発成功。左折はスピーディーで巻き付くような動き。高速道路では140キロオーバーで目的地まであっという間。この運転に対し、同乗していた別の友人が「○○って、めっちゃ運転上手いなあ!」と言った。これを聞いた私は、その言葉にあまり納得できなかった。私の感覚で言うと、その人は「ハンドルテクニックが優れていて、リスクを恐れない運転をする人」であり、必ずしも「運転が上手い人」とは限らないと思った。
では「運転が上手い」とは何か。
その一つは、マイナス要素の少ない運転をすることだと思う。例えば車庫入れ。何度も切り返しをしてしまう車庫入れだと時間的にも気分的にもマイナスになるが、だからといってするどい動きで入れる必要もない。むしろ速い動きだと、ミスして隣の車などにぶつけてしまう可能性がある。運転手本人は自信満々でミスなんてしないと思っていたとしても、同乗者がその不安を感じてしまうだけでもマイナスポイントである。安全に、かつスムーズにできればそれで満点なのだ。細かいことを言えば、左右の他の車との間隔を、同乗者や自分が出やすいように調整できていればなお良い。右折・左折や車線変更などの「ハンドルさばき」が関係する作業に関しては、どれだけ同乗者が何も感じず乗っていられるかどうかが重要である。「荒い運転」と「上手い運転」は紙一重だと言う人もいるが、それは違うと思う。「上手い運転」の条件には、「荒くない運転」も含まれている。
従って、同乗者が「上手い!」とも「下手クソ!」とも感じないような、何も感じない自然な運転こそが「上手い運転」だということになる。これはひと言で言うと「基本に忠実で安全な運転」。交差点を時速○キロで入って○メートル前でウインカーを出してバックミラー見て・・・てな感じ。それ以上のことを無理にする必要は全くない。むしろそうすると「上手い運転」から遠ざかってしまうように思う。JR西日本の脱線事故なんて、その辺の価値観が狂ってしまっていたから起こったようなもんである。まあ、あれは競合との競争意識もあったのだろうが。
そして「上手い運転」の二つ目は、状況判断ができる運転である。どの道順で行けばスムーズかどうかの判断、どの車線で走ればスムーズかどうかの判断、渋滞の際の対応、後ろに車を引き連れて誘導する際の運転、迷った時の対応などがそれに当てはまる。ハンドルテクニックなどの技術的な部分ではなく、頭の能力の部分である。ただ、これができていても、何故か「運転が上手い!」という評価にはあまり繋がらない。「運転の上手さ」はどうしても技術的な部分に目が行きがちで、状況判断のように目に見えない能力は「運転の上手さ」として見られない人が多いからである。しかし、これはれっきとした「上手さ」であると思う。
以上の2つが私の思う「運転の上手さ」である。
簡単にまとめると「安全で臨機応変な運転」ということだ。
自動車運転免許証を持っている人は誰もが教習所に通い、ある程度の技術的レベルや状況判断レベルを向上させて免許を手にしている。そういう意味では、ある程度「運転が上手い」と判断されたとも言えるが、それはあくまでも車を動かすための技術や判断が“最低限のレベル”に達したに過ぎず、そこから向上させるべき能力(技術とは限らない)はまだたくさんある。しかしその向上の方向性を勘違いしてしまうことによって、逆に「上手い運転」から遠ざかってしまうのだ。できることなら、そのような運転意識のようなものももっと教習所で教えてあげてほしい。全員がぶっ飛ばす道路よりも、誰もが事故を起こさない(従ってそれによる事故渋滞も起きない)道路や、誰もが臨機応変に運転できている道路の方が、間違いなく素晴らしい状態であると思うから。
「運転が上手い人は燃費が良い」という言葉を何度か聞いたことがある。この言葉の本意は先ほど書いたような「急ブレーキや急発進などを控える人」が、イコール「運転が上手い人」だということである。これについてはそれなりに納得しているのだが、「上手い運転」とはそれだけのことではないはず。では、そもそも「上手い運転」とはいったい何をもって言うのだろう。
大学時代、ある友人の運転する車に乗っていた私は、次のようなシーンを目の当たりにした。駐車スペースへの車庫入れはするどい動きで一発成功。左折はスピーディーで巻き付くような動き。高速道路では140キロオーバーで目的地まであっという間。この運転に対し、同乗していた別の友人が「○○って、めっちゃ運転上手いなあ!」と言った。これを聞いた私は、その言葉にあまり納得できなかった。私の感覚で言うと、その人は「ハンドルテクニックが優れていて、リスクを恐れない運転をする人」であり、必ずしも「運転が上手い人」とは限らないと思った。
では「運転が上手い」とは何か。
その一つは、マイナス要素の少ない運転をすることだと思う。例えば車庫入れ。何度も切り返しをしてしまう車庫入れだと時間的にも気分的にもマイナスになるが、だからといってするどい動きで入れる必要もない。むしろ速い動きだと、ミスして隣の車などにぶつけてしまう可能性がある。運転手本人は自信満々でミスなんてしないと思っていたとしても、同乗者がその不安を感じてしまうだけでもマイナスポイントである。安全に、かつスムーズにできればそれで満点なのだ。細かいことを言えば、左右の他の車との間隔を、同乗者や自分が出やすいように調整できていればなお良い。右折・左折や車線変更などの「ハンドルさばき」が関係する作業に関しては、どれだけ同乗者が何も感じず乗っていられるかどうかが重要である。「荒い運転」と「上手い運転」は紙一重だと言う人もいるが、それは違うと思う。「上手い運転」の条件には、「荒くない運転」も含まれている。
従って、同乗者が「上手い!」とも「下手クソ!」とも感じないような、何も感じない自然な運転こそが「上手い運転」だということになる。これはひと言で言うと「基本に忠実で安全な運転」。交差点を時速○キロで入って○メートル前でウインカーを出してバックミラー見て・・・てな感じ。それ以上のことを無理にする必要は全くない。むしろそうすると「上手い運転」から遠ざかってしまうように思う。JR西日本の脱線事故なんて、その辺の価値観が狂ってしまっていたから起こったようなもんである。まあ、あれは競合との競争意識もあったのだろうが。
そして「上手い運転」の二つ目は、状況判断ができる運転である。どの道順で行けばスムーズかどうかの判断、どの車線で走ればスムーズかどうかの判断、渋滞の際の対応、後ろに車を引き連れて誘導する際の運転、迷った時の対応などがそれに当てはまる。ハンドルテクニックなどの技術的な部分ではなく、頭の能力の部分である。ただ、これができていても、何故か「運転が上手い!」という評価にはあまり繋がらない。「運転の上手さ」はどうしても技術的な部分に目が行きがちで、状況判断のように目に見えない能力は「運転の上手さ」として見られない人が多いからである。しかし、これはれっきとした「上手さ」であると思う。
以上の2つが私の思う「運転の上手さ」である。
簡単にまとめると「安全で臨機応変な運転」ということだ。
自動車運転免許証を持っている人は誰もが教習所に通い、ある程度の技術的レベルや状況判断レベルを向上させて免許を手にしている。そういう意味では、ある程度「運転が上手い」と判断されたとも言えるが、それはあくまでも車を動かすための技術や判断が“最低限のレベル”に達したに過ぎず、そこから向上させるべき能力(技術とは限らない)はまだたくさんある。しかしその向上の方向性を勘違いしてしまうことによって、逆に「上手い運転」から遠ざかってしまうのだ。できることなら、そのような運転意識のようなものももっと教習所で教えてあげてほしい。全員がぶっ飛ばす道路よりも、誰もが事故を起こさない(従ってそれによる事故渋滞も起きない)道路や、誰もが臨機応変に運転できている道路の方が、間違いなく素晴らしい状態であると思うから。