2006-07.27 Thu夢の奴隷[世の中]
Time[08:56] Comment[1] Trackback[0]
「夢ばかり見て後で現実に打ちのめされるより、現実を見据え、現実を徐々に良くしていくことを考えるべきだろう?」
これは、先日正式にサッカー日本代表の監督に就任したイビチャ・オシム氏が昨年言った言葉である。夢は誰しもが叶うものではなく、夢のままで終わる人生も多い。だからこそ夢より現実を見据え、傷つかず進んでいくべきだ、と彼は言っている。自己防衛の精神である。しかし私の夢に対する考え方は違う。
夢というものはどれだけ周囲からひんしゅくを浴びても、どれだけ傷ついても、泥まみれになって追い続けるべきものだと思う。その夢をどこに置くか、いくつの夢を抱くか、いつ叶えるのか、それはその人その人の自由。ただ、「夢は常に自分のもの」という意識を持てるかどうかが大事であると思う。自分と夢との間には何も入り込ませず、どんな雑音も周囲の声も聞こえない。夢へ向かうには、それくらいの意気込みや勢いが大切なのではないだろうか。 ハーヴィー・アレンは「若い者は夢の奴隷である」という言葉を残した。夢を抱くなら、奴隷であっても良い。いや、むしろ奴隷になった方が良いとさえ言ってしまって良いだろう。夢とはそれほど入れ込むべきものなのだ。
今月22日、社会人野球のクラブチーム「茨城ゴールデンゴールズ」監督でタレントの萩本欽一氏が解散発言を撤回し、チームを存続させる方針を明らかにした。チームを「夢列車」と称し、自らの夢、選手の夢、ファンの夢を託し築き上げてきたのだが、一人の選手の愚かな行為が原因で一時的にチームを解散の危機に陥らせていた。野球界にとってこの解散撤回の決断は喜ばしいことであり、私個人的にも絶対に解散すべきでないと思っていたので純粋に嬉しく思った。しかし、自らの解散発言が“勢い発言”であったことを明かしたり、解散表明のあとに未練たっぷりのコメントをするなど、欽ちゃんが夢に対して「奴隷」になりきれていない様子が見受けられたことには、少しばかり残念な思いがした。
「夢の奴隷」で思い浮かぶのが、ボクシングの辰吉丈一郎。彼は21歳にして左目の網膜剥離で試合が許されない状況になり、周囲から「引退か」とささやかれた。彼はあくまで現役続行にこだわり続け、協会規定を覆してまで復活を遂げ、奇跡の世界王座返り咲きを果たした。しかし、その後ウィラポンに二度の敗戦。周囲の強い声により、ここで一度は引退を宣言せざるを得ない状況になったが、すぐにその引退宣言を撤回。現在は足の怪我に苦しみ、試合が全く決まらない状況の中、やはりあくまで現役続行にこだわっている。彼にとって「誰よりも強くある」ということは夢であり、その夢の奴隷になって夢を追い続けているのだろう。「奴隷」という単語には『ある事に心を奪われ、他をかえりみない人』という意味もある。周囲の声など気にせず、自分のわがままを貫き通すことも、夢に向かう人間の美しさ。辰吉はそんなこと感じさせた。
ブッシュ大統領はあるテレビ番組で、自身の夢について次のような発言をした。「私には夢がある。イスラエルに平和がもたらされることだ。平和を妨げるテロは排除しなければならない」。どんな夢を抱こうが人の自由。周囲の声に惑わされず、夢にこだわり続けることも美しさの一つ。しかしその夢に「他人を不幸に陥れてまで」という冠がついたとき、美しさは跡形もなく消える。「他人を殺してまで」なんてもってのほか。それを実行し続ける人間など、夢に向かう美しさとは対極のところにいるいわば悪の奴隷だ。まずは何よりもレバノンへの攻撃をストップさせ、停戦に向かうべきだ。アメリカの夢は「イスラエルの平和」なんかじゃない。
これは、先日正式にサッカー日本代表の監督に就任したイビチャ・オシム氏が昨年言った言葉である。夢は誰しもが叶うものではなく、夢のままで終わる人生も多い。だからこそ夢より現実を見据え、傷つかず進んでいくべきだ、と彼は言っている。自己防衛の精神である。しかし私の夢に対する考え方は違う。
夢というものはどれだけ周囲からひんしゅくを浴びても、どれだけ傷ついても、泥まみれになって追い続けるべきものだと思う。その夢をどこに置くか、いくつの夢を抱くか、いつ叶えるのか、それはその人その人の自由。ただ、「夢は常に自分のもの」という意識を持てるかどうかが大事であると思う。自分と夢との間には何も入り込ませず、どんな雑音も周囲の声も聞こえない。夢へ向かうには、それくらいの意気込みや勢いが大切なのではないだろうか。 ハーヴィー・アレンは「若い者は夢の奴隷である」という言葉を残した。夢を抱くなら、奴隷であっても良い。いや、むしろ奴隷になった方が良いとさえ言ってしまって良いだろう。夢とはそれほど入れ込むべきものなのだ。
今月22日、社会人野球のクラブチーム「茨城ゴールデンゴールズ」監督でタレントの萩本欽一氏が解散発言を撤回し、チームを存続させる方針を明らかにした。チームを「夢列車」と称し、自らの夢、選手の夢、ファンの夢を託し築き上げてきたのだが、一人の選手の愚かな行為が原因で一時的にチームを解散の危機に陥らせていた。野球界にとってこの解散撤回の決断は喜ばしいことであり、私個人的にも絶対に解散すべきでないと思っていたので純粋に嬉しく思った。しかし、自らの解散発言が“勢い発言”であったことを明かしたり、解散表明のあとに未練たっぷりのコメントをするなど、欽ちゃんが夢に対して「奴隷」になりきれていない様子が見受けられたことには、少しばかり残念な思いがした。
「夢の奴隷」で思い浮かぶのが、ボクシングの辰吉丈一郎。彼は21歳にして左目の網膜剥離で試合が許されない状況になり、周囲から「引退か」とささやかれた。彼はあくまで現役続行にこだわり続け、協会規定を覆してまで復活を遂げ、奇跡の世界王座返り咲きを果たした。しかし、その後ウィラポンに二度の敗戦。周囲の強い声により、ここで一度は引退を宣言せざるを得ない状況になったが、すぐにその引退宣言を撤回。現在は足の怪我に苦しみ、試合が全く決まらない状況の中、やはりあくまで現役続行にこだわっている。彼にとって「誰よりも強くある」ということは夢であり、その夢の奴隷になって夢を追い続けているのだろう。「奴隷」という単語には『ある事に心を奪われ、他をかえりみない人』という意味もある。周囲の声など気にせず、自分のわがままを貫き通すことも、夢に向かう人間の美しさ。辰吉はそんなこと感じさせた。
ブッシュ大統領はあるテレビ番組で、自身の夢について次のような発言をした。「私には夢がある。イスラエルに平和がもたらされることだ。平和を妨げるテロは排除しなければならない」。どんな夢を抱こうが人の自由。周囲の声に惑わされず、夢にこだわり続けることも美しさの一つ。しかしその夢に「他人を不幸に陥れてまで」という冠がついたとき、美しさは跡形もなく消える。「他人を殺してまで」なんてもってのほか。それを実行し続ける人間など、夢に向かう美しさとは対極のところにいるいわば悪の奴隷だ。まずは何よりもレバノンへの攻撃をストップさせ、停戦に向かうべきだ。アメリカの夢は「イスラエルの平和」なんかじゃない。
2006-07.09 Sunたとえば、海について 雨について[戯言]
Time[12:21] Comment[1] Trackback[0]
海について
海は、人々が歩むストーリーの縮図である。
寄せる波、返す波、大きい波、小さい波、崩れる波、美しい波。
砂浜に降りた少年は、ザザーと奏でる波音に引き寄せられ、
ユラユラ揺れる、キラキラ光る海をめざす。
そこで見えるものは
出会い、別れ、喜ぶこと、悲しむことに代表される、人として歩むであろう道。
ときにそれは太陽のさす海のように、水しぶきひとつひとつが輝くドラマのように感じられ、
ときにそれは夜の海岸のように、子どものイジメくらい残酷に「絶望感」を与えつづける。
水面がうつす表情は鮮やかに色分けされ、
日々の暮らしで感じる喜怒哀楽の移り変わりの妙を映し出すよう。
月の光は、夜の海が映しだす暗闇の恐怖あふれるストーリーを
プラスの意味合いに感じられる落ちついた海の色、地平線の色に変える。
そこには悲しい雰囲気がいくつも残っているのだが、本人はそれに気づかない。
海の表情は無限大で、人生の表情も無限大。
季節、天気、昼夜、キャスティング、音、その組み合わせで、
海が織りなす物語のすべては変わっていく。
その海のむこうにあるものは、いったい何だろう。
雨について
雨は、自らを守るものや支えるものの存在を教える教師である。
ザーザー降る雨のなか、歩く人の群れにはカラフルな傘が飾られる。
それは人々の生活のなかで信じられる存在となりえる「支え」をあらわし、
雨はその大きさを改めて知らしめる。
雨音が激しくなると、小さな傘では守りきれない。
新たな支えを探すか、手持ちの傘を大切にじっと我慢し歩き続けるか、
それは雨を感じたその人の感情、考えによる。
しとしと降る雨を横目に我が家で過ごすひとときは、
しっとりと落ち着いた気持ちで自らを見つめさせる。
魔法のバリヤーで守られているかのように、
大戦争のなか核シェルターで過ごしているかのように、
雑音をカットし、自らの存在、支えの存在をかみしめさせる。
雨は忘れていたものを教えてくれる教師のよう。
ときにはカミナリで激しく叱咤し、ときには梅雨の雨でネチネチ嫌みを言う。
ワイパーを止め、雨音激しい窓を見つめてみると感じられる。
ずぶ濡れで嵐のなか、傘をささず走ってみると感じられる。
そしてときには鼻唄でも歌いながら、小さな傘をさして歩くと良い。
海は、人々が歩むストーリーの縮図である。
寄せる波、返す波、大きい波、小さい波、崩れる波、美しい波。
砂浜に降りた少年は、ザザーと奏でる波音に引き寄せられ、
ユラユラ揺れる、キラキラ光る海をめざす。
そこで見えるものは
出会い、別れ、喜ぶこと、悲しむことに代表される、人として歩むであろう道。
ときにそれは太陽のさす海のように、水しぶきひとつひとつが輝くドラマのように感じられ、
ときにそれは夜の海岸のように、子どものイジメくらい残酷に「絶望感」を与えつづける。
水面がうつす表情は鮮やかに色分けされ、
日々の暮らしで感じる喜怒哀楽の移り変わりの妙を映し出すよう。
月の光は、夜の海が映しだす暗闇の恐怖あふれるストーリーを
プラスの意味合いに感じられる落ちついた海の色、地平線の色に変える。
そこには悲しい雰囲気がいくつも残っているのだが、本人はそれに気づかない。
海の表情は無限大で、人生の表情も無限大。
季節、天気、昼夜、キャスティング、音、その組み合わせで、
海が織りなす物語のすべては変わっていく。
その海のむこうにあるものは、いったい何だろう。
雨について
雨は、自らを守るものや支えるものの存在を教える教師である。
ザーザー降る雨のなか、歩く人の群れにはカラフルな傘が飾られる。
それは人々の生活のなかで信じられる存在となりえる「支え」をあらわし、
雨はその大きさを改めて知らしめる。
雨音が激しくなると、小さな傘では守りきれない。
新たな支えを探すか、手持ちの傘を大切にじっと我慢し歩き続けるか、
それは雨を感じたその人の感情、考えによる。
しとしと降る雨を横目に我が家で過ごすひとときは、
しっとりと落ち着いた気持ちで自らを見つめさせる。
魔法のバリヤーで守られているかのように、
大戦争のなか核シェルターで過ごしているかのように、
雑音をカットし、自らの存在、支えの存在をかみしめさせる。
雨は忘れていたものを教えてくれる教師のよう。
ときにはカミナリで激しく叱咤し、ときには梅雨の雨でネチネチ嫌みを言う。
ワイパーを止め、雨音激しい窓を見つめてみると感じられる。
ずぶ濡れで嵐のなか、傘をささず走ってみると感じられる。
そしてときには鼻唄でも歌いながら、小さな傘をさして歩くと良い。