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私には祖父も祖母もいない。私に物心がついたとき、すでに母方の祖母だけが健在だったのだが、その祖母も昨年亡くなった。祖母は90歳を超えており、老衰だった。祖母は亡くなる数ヶ月前から、死んだはずの祖父の幻覚を見たり、現実世界と夢の世界の区別がつかなくなるなど、いわゆる“ボケ”状態にあった。家族や親族はそんな祖母を見て、死期が近いことを覚悟していた。そして祖母は現実世界に別れを告げ、愛する亭主のもとへ向かった。2005年5月のことである。

祖母が亡くなり、私は葬儀に参列した。葬儀といえば、悲しみに暮れ、辛気くさい雰囲気が漂うという印象があるのだが、祖母の葬儀はまったく違った。久しぶりに集まった親族どうしが笑顔で祖母のことを語り合い、談笑する姿がそこにある。まるで祖母がめったに会わない親族を集め、語り合う場所を設けてくれたかのよう。白い顔で目をつぶる祖母の顔は、90数年を生き抜いた達成感でいっぱいに見えた。そんな明るい死を迎えられたのは、死期をみなが覚悟できたこと、すなわち祖母の大往生が大きな要因だったのだろう。

「かっこいい死に方」なんてのを考えたことがあるだろうか。映画のヒーローのように悪者を退治して自分も死ぬ、あるいは誰かを助け、身代わりになって死んでしまう。子どものころはそんな死に方を想像してニンマリしたものだ。自分の死によって泣き崩れる人の顔を思い浮かべ、少しばかりの自己満足に浸ったりしたこともあった。しかし、「最もかっこいい死に方」「最も素晴らしい死に方」の概念は祖母の死によって大きく変えられた。どんなにカッコイイ死に方をしたとしても、周りの悲しみを引き起こす死に方は決して素晴らしいとは言えない。むしろ祖母のように、周りに心の準備をさせ、明るい気持ちで葬儀に迎えられる死の方がよっぽど素晴らしいのではないか、と。

それは死に関することだけではなく、「別れ」に関するすべてのことに言えることだと思う。先日、北海道日本ハムファイターズの新庄剛志選手が突然の引退を発表したが、予期せぬ引退宣言にショックを感じたファンも多かったことだろう。もちろん結局は新庄選手自身の人生のことなので、周りのことなんて関係ないといえば関係ない。しかし視点をファンに変えてみたとき、やはり「残念」「悲しい」「ショック」などという表現が思い浮かぶ。視点によって賛否は分かれるだろうが、周りにできるだけショックを与えないことの素晴らしさというものも、「別れ」において重要な要素ではないだろうか。

「別れ」というものはどんなことであっても悲しいことであり、心の底から嬉しさを感じる別れなんて別れじゃない。しかしどうせ悲しい別れなら、できるだけ悲しみを感じない別れであればより良いに違いない。突然の別れで周りを驚かせ、それに快感を感じたいときもあるのかもしれないが、それは自分視点に偏ったある意味サディスティックな行動である。思いやりがあれば、人にできるだけ悲しみを与えないための行動がとれるはず。「別れ」は人生において避けては通れない経験だが、そこで重要なのは「前に向かって歩きだせる別れ」をつくりだせるかどうか。つくりだしてあげれられるかどうか。

それは、決断する者の思いやりにかかっている。

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2006.08.26 | 戯言 | トラックバック(0) | コメント(0) |

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