2007-03.29 Thu私的音楽特選7(ゆるい音楽編)[音楽]
Time[23:20] Comment[2] Trackback[0]
おなじ話(ハンバートハンバート)
先日、梅田HEPホールでのライブに行ってきた。フォーク、カントリー、童謡などの要素を取り入れた、いわゆる“ゆる〜い系”音楽の男女デュオ。ボーカル佐野遊穂の透き通った声と、ギター佐藤良成のダミダミした声が妙にマッチし、どこか懐かしく、妙に切ない、独特の雰囲気を漂わせるユニットである。
ハンバートハンバートの歌詞には、多くの曲に「さようなら」というフレーズが使われている。楽しげなメロディーでも、どこか淋しい雰囲気が見え隠れする。アコギやマンドリン、バイオリンの古めかしい音色が、その雰囲気づくりを助長しているよう。
この『おなじ話』という曲は、彼らの作品のなかでも特にその雰囲気が感じられる曲。男女が会話をするように、「どこにいるの?」「窓のそばにいるよ」「何をしてるの?」「何にもしてないよ」「そばにおいでよ」「今行くから待って」と同じような会話を繰り返す。男女にはよくある会話。無意味なようだが、実はすごく意味のある会話。
曲の後半から、物語は悲しい方向へと向かう。「話しをしよう」と男が語りかけても、女からの返事はない。二人の距離はどんどん広がり、ついに「さようなら」という言葉。きれいにハモった歌声と、それを乗せた心地よいメロディーが、逆に悲しい雰囲気を演出する。突然の別れではなく、ゆっくりと別れていく二人を描いており、聞き終わってからじわじわと味わい深くなっていく。
宝石(タテタカコ)
私が名作だと思う映画のひとつ『誰も知らない』の挿入歌。彼女の曲はハンバートハンバートとはまた違った雰囲気があり、時には上品で、時には突き刺さるようなショッキングなメロディーを奏でる。すべてがピアノの弾き語りで、何となく学校の音楽の授業を思い出させる。合唱コンクール(私の母校ではこう呼んだ)で歌いそうな曲が多く、どこか懐かしさのようなものを感じる。しかしその反面、何か恐ろしい感情を覚えてしまうのも彼女独特の特徴。
『宝石』は彼女が高校生の時に書いた歌らしい。暗闇の世界に取り残された自分が、恐怖やもどかしさやの中、自分でも分からない「何か」を訴えようとしているようだ。淋しさのなかにもトゲがあり、いわゆる“メッセージ性”というものを強く感じる。まるで少年・少女の奥に秘められた感情を吐き出しているよう。『誰も知らない』の是枝監督が挿入歌として強く希望したのもよくわかる。
彼女の曲には「楽しい」という雰囲気はあまり感じられない。この『宝石』もそう。明け方や夕暮れ、真夜中といった、哀愁のある風景がよく似合う。「だれもよせつけられない 異臭を放った宝石」。このような独特の言葉のチョイスが、彼女の世界を構成している。頭の中で物語がイメージされるような“光景”を描くことができる不思議な音楽だ。もはや音楽というより、小説を読んでいる感覚に近い。
こんにちは またあした(コトリンゴ)
月桂冠『つき』のCMソング。消えてしまいそうにささやく声で、ほんわかするラブソングを歌う。彼女は昨年の秋にこの歌でCDデビュー。なんでも、坂本龍一のラジオ番組にデモテープを送ったところ、その才能を見出されてデビューが決まったという。ボリュームを少し大きめにしないと聞こえない、妖精みたいな優しい声。
「何でもないような事が 幸せだったと思う」と歌ったTHE虎舞竜の『ロード』のように、この歌も“何気ない”“ささやかな”幸せを歌っている。当たり前のような「こんにちは」「おやすみ」という挨拶の中にも大きな幸せが詰まっている。恋愛を悟ったような歌詞である反面、子どものように純粋な気持ちも存在する。何か、原点回帰の大切さというか、純粋な感情のすばらしさというか、そんなことを考えさせられる歌である。
この歌は“何気ない小さな幸せ”がテーマのようだが、歌詞の中には「地球のはて」や「広い宇宙」という“何気ない”とは対極の言葉も使われている。この大きな言葉が“小さな幸せ”の存在をより小さくし、その大切さをより大きくする。さらには、その幸せをより身近に感じさせる。跳ねるようなピアノに合わせて、楽しそうにメロディーをささやき、まるで思春期の少女が書く日記のよう。聞いているだけで、もうニンマリ。
先日、梅田HEPホールでのライブに行ってきた。フォーク、カントリー、童謡などの要素を取り入れた、いわゆる“ゆる〜い系”音楽の男女デュオ。ボーカル佐野遊穂の透き通った声と、ギター佐藤良成のダミダミした声が妙にマッチし、どこか懐かしく、妙に切ない、独特の雰囲気を漂わせるユニットである。
ハンバートハンバートの歌詞には、多くの曲に「さようなら」というフレーズが使われている。楽しげなメロディーでも、どこか淋しい雰囲気が見え隠れする。アコギやマンドリン、バイオリンの古めかしい音色が、その雰囲気づくりを助長しているよう。
この『おなじ話』という曲は、彼らの作品のなかでも特にその雰囲気が感じられる曲。男女が会話をするように、「どこにいるの?」「窓のそばにいるよ」「何をしてるの?」「何にもしてないよ」「そばにおいでよ」「今行くから待って」と同じような会話を繰り返す。男女にはよくある会話。無意味なようだが、実はすごく意味のある会話。
曲の後半から、物語は悲しい方向へと向かう。「話しをしよう」と男が語りかけても、女からの返事はない。二人の距離はどんどん広がり、ついに「さようなら」という言葉。きれいにハモった歌声と、それを乗せた心地よいメロディーが、逆に悲しい雰囲気を演出する。突然の別れではなく、ゆっくりと別れていく二人を描いており、聞き終わってからじわじわと味わい深くなっていく。
宝石(タテタカコ)
私が名作だと思う映画のひとつ『誰も知らない』の挿入歌。彼女の曲はハンバートハンバートとはまた違った雰囲気があり、時には上品で、時には突き刺さるようなショッキングなメロディーを奏でる。すべてがピアノの弾き語りで、何となく学校の音楽の授業を思い出させる。合唱コンクール(私の母校ではこう呼んだ)で歌いそうな曲が多く、どこか懐かしさのようなものを感じる。しかしその反面、何か恐ろしい感情を覚えてしまうのも彼女独特の特徴。
『宝石』は彼女が高校生の時に書いた歌らしい。暗闇の世界に取り残された自分が、恐怖やもどかしさやの中、自分でも分からない「何か」を訴えようとしているようだ。淋しさのなかにもトゲがあり、いわゆる“メッセージ性”というものを強く感じる。まるで少年・少女の奥に秘められた感情を吐き出しているよう。『誰も知らない』の是枝監督が挿入歌として強く希望したのもよくわかる。
彼女の曲には「楽しい」という雰囲気はあまり感じられない。この『宝石』もそう。明け方や夕暮れ、真夜中といった、哀愁のある風景がよく似合う。「だれもよせつけられない 異臭を放った宝石」。このような独特の言葉のチョイスが、彼女の世界を構成している。頭の中で物語がイメージされるような“光景”を描くことができる不思議な音楽だ。もはや音楽というより、小説を読んでいる感覚に近い。
こんにちは またあした(コトリンゴ)
月桂冠『つき』のCMソング。消えてしまいそうにささやく声で、ほんわかするラブソングを歌う。彼女は昨年の秋にこの歌でCDデビュー。なんでも、坂本龍一のラジオ番組にデモテープを送ったところ、その才能を見出されてデビューが決まったという。ボリュームを少し大きめにしないと聞こえない、妖精みたいな優しい声。
「何でもないような事が 幸せだったと思う」と歌ったTHE虎舞竜の『ロード』のように、この歌も“何気ない”“ささやかな”幸せを歌っている。当たり前のような「こんにちは」「おやすみ」という挨拶の中にも大きな幸せが詰まっている。恋愛を悟ったような歌詞である反面、子どものように純粋な気持ちも存在する。何か、原点回帰の大切さというか、純粋な感情のすばらしさというか、そんなことを考えさせられる歌である。
この歌は“何気ない小さな幸せ”がテーマのようだが、歌詞の中には「地球のはて」や「広い宇宙」という“何気ない”とは対極の言葉も使われている。この大きな言葉が“小さな幸せ”の存在をより小さくし、その大切さをより大きくする。さらには、その幸せをより身近に感じさせる。跳ねるようなピアノに合わせて、楽しそうにメロディーをささやき、まるで思春期の少女が書く日記のよう。聞いているだけで、もうニンマリ。
2007-03.28 Wed上原草子の“グッジョブ”を見習え![世の中]
Time[18:55] Comment[5] Trackback[0]
久しぶりにドラマというものを見てみた。
昨日から5夜連続で放映されているNHKドラマ『グッジョブ-Good Job-』。特に期待していたというわけでもなく、好きなタレントが出演しているというわけでもない。ただ、23時という深い時間帯が自分の生活リズムに合ったので、何気なしに見てみた。
このドラマは連載中のコミックをドラマ化したもの。建設会社を舞台に、個性豊かなOLたちと彼女らのサポートを受ける営業マンが織り成す人間模様を描いている。「働く女性」がこのドラマのテーマ。最近では『ハケンの品格』というドラマがヒットするなど、「働く女性」に対する関心は高まっているようだ。
私が注目したのは、主演の松下奈緒が演じる上原草子の仕事への姿勢。“営業サポート”という立場の彼女は、営業マンに対して思ったことをストレートにぶつけていた。時には営業マンに喝を入れ、時には新人を励ます。明るくアグレッシブで、常に営業課のメンバーを気にかける。演技の中で彼女自身も言っていたが、まさに「ハートでぶつかる」タイプの人間だ。与えられた業務をこなすだけでなく、部署の雰囲気やチームワークを高めていこうとするポジティブな姿勢が強く感じられた。
「仕事ができる人間」とは、一体どういうことだろう。私も社会人になって丸5年になり、様々な社員や客と接してきた。その中には、仕事はきっちり行うが無愛想で感じの悪い人もいた。普通、そのような人を言葉で表現すると「仕事はできるんだけど、なんか感じ悪いな〜」となる。しかし私は次のように思う。
「感じが悪い」「接しにくい」「苦手だ」と相手に思わせることは、ある意味「仕事ができない」ということに等しい。不快感を与えることで、相手から積極的に接せられなくなり、それにより自分への情報伝達が不足。業務進行への支障が出る。回り回って、その人自身の業務にも悪影響を与えることになる。言ってみれば、その人は業務を行う上で「損をしている」ということになる。もちろん、これは仕事だけに限ったことではなく、生き方そのものに言えることだ。
若者だけでなく、中堅世代にも言えることらしいが、最近は「自分さえよければいい」という冷めた考えで仕事をする人が多いという。中には「社内ニート」と呼ばれる極端に無気力なヤツらさえ存在する。悪しき態度や冷めた考えは、周囲の人間だけでなく、回り回ってその人自身もダメにする。与えられた仕事はちゃんとしていても、その人が会社に与えるものはそれ以上に“有害”であるだろう。
松下奈緒演じる上原草子から感じたことは“姿勢”だった。周りに与えるポジティブな雰囲気や、チームワークを重んじる姿勢は、「スキル」と呼べる立派な武器である。まだ2話しか見ていないが、ドラマ『グッジョブ』からはそんなことを感じた。「仕事はデキるが感じの悪い人」諸君よ、どうかこのスキルを磨いてくれ。
昨日から5夜連続で放映されているNHKドラマ『グッジョブ-Good Job-』。特に期待していたというわけでもなく、好きなタレントが出演しているというわけでもない。ただ、23時という深い時間帯が自分の生活リズムに合ったので、何気なしに見てみた。
このドラマは連載中のコミックをドラマ化したもの。建設会社を舞台に、個性豊かなOLたちと彼女らのサポートを受ける営業マンが織り成す人間模様を描いている。「働く女性」がこのドラマのテーマ。最近では『ハケンの品格』というドラマがヒットするなど、「働く女性」に対する関心は高まっているようだ。
私が注目したのは、主演の松下奈緒が演じる上原草子の仕事への姿勢。“営業サポート”という立場の彼女は、営業マンに対して思ったことをストレートにぶつけていた。時には営業マンに喝を入れ、時には新人を励ます。明るくアグレッシブで、常に営業課のメンバーを気にかける。演技の中で彼女自身も言っていたが、まさに「ハートでぶつかる」タイプの人間だ。与えられた業務をこなすだけでなく、部署の雰囲気やチームワークを高めていこうとするポジティブな姿勢が強く感じられた。
「仕事ができる人間」とは、一体どういうことだろう。私も社会人になって丸5年になり、様々な社員や客と接してきた。その中には、仕事はきっちり行うが無愛想で感じの悪い人もいた。普通、そのような人を言葉で表現すると「仕事はできるんだけど、なんか感じ悪いな〜」となる。しかし私は次のように思う。
「感じが悪い」「接しにくい」「苦手だ」と相手に思わせることは、ある意味「仕事ができない」ということに等しい。不快感を与えることで、相手から積極的に接せられなくなり、それにより自分への情報伝達が不足。業務進行への支障が出る。回り回って、その人自身の業務にも悪影響を与えることになる。言ってみれば、その人は業務を行う上で「損をしている」ということになる。もちろん、これは仕事だけに限ったことではなく、生き方そのものに言えることだ。
若者だけでなく、中堅世代にも言えることらしいが、最近は「自分さえよければいい」という冷めた考えで仕事をする人が多いという。中には「社内ニート」と呼ばれる極端に無気力なヤツらさえ存在する。悪しき態度や冷めた考えは、周囲の人間だけでなく、回り回ってその人自身もダメにする。与えられた仕事はちゃんとしていても、その人が会社に与えるものはそれ以上に“有害”であるだろう。
松下奈緒演じる上原草子から感じたことは“姿勢”だった。周りに与えるポジティブな雰囲気や、チームワークを重んじる姿勢は、「スキル」と呼べる立派な武器である。まだ2話しか見ていないが、ドラマ『グッジョブ』からはそんなことを感じた。「仕事はデキるが感じの悪い人」諸君よ、どうかこのスキルを磨いてくれ。
2007-03.25 Sun中村紀洋と公傷制度[スポーツ]
Time[22:20] Comment[2] Trackback[0]
中日ドラゴンズに育成選手として入団していた中村紀洋選手が、先日支配下選手登録された。かつて年俸5億円だった男が、泥水を飲む覚悟で臨んだ再スタート。そこからわずか1ヶ月で、見事“サクラサク”という結果になった。しかしそれでも年俸はまだ600万円。「お金じゃない」と言って野球を続けた部分をみれば、なんとも美しい話のようにみえる。しかし私は、この話に拍手を送る気にはなれない。そもそも彼は、オリックスをクビになったわけではなく、お金でもめて自ら退団したのだ。
もめた原因は左手首故障の「公傷扱い」にある。昨年オリックスに入団したノリだが、春先からケガの連続だった。開幕前の右足肉離れに始まり、左手親指の捻挫、古傷である左手首の故障、さらには右手首の故障。散々なシーズンを送っていた。本来なら治療に専念したいところだったが、チームの戦力不足から彼はケガを押して試合に出場。それもむなしく、チームは5位と低迷。ノリ自身の成績も振るわず、打率.232、12本塁打と期待を大きく裏切った。
そのオフ、彼は契約更改で「公傷」というものを球団に訴えた。『ケガしてたのに試合に頑張って出続けた。だから給料のダウン幅をもうちょっと少なくしてほしい』という訴えである。しかしオリックスはそれを認めず、交渉は決裂。トレード先を探すも、相手が見つからず断念。最終的にノリは自由契約となったのである。
そもそも公傷制度というものは、プロ野球全体の制度という形では存在せず、各球団の裁量に任されているのが現状だ。例えば、ロッテは公傷自体を認めていない。しかしその一方、巨人の高橋由伸選手は公傷を3度も認められている。オリックスの平野恵一選手はフェンスに激突してまでボールを追い、全身打撲の大ケガを負ったが、公傷は認められなかった。このように、球団によって甘い公傷認定もあれば、平野のような厳しい査定まで存在するのだ。
中村紀洋の場合、争点となった左手首のケガは昔からの古傷。死球により悪化したとはいえ、自己責任の部分も大きい。プロスポーツの世界には古傷なんて誰にでもあるもので、それが悪化したからといって球団に公傷を訴えるべきではない。元近鉄の監督で野球解説者の鈴木啓示氏も「『無事是名馬』で、優れた選手は故障に強い。中村には成績不振をケガのせいにし、公傷にしてくれとは言ってほしくなかった」と苦言を呈している。故障はしっかりと治してからシーズンを迎えるのがプロとしての責任。それは以前、彼自身の口からもよく聞こえた言葉だった。
彼が球団に言いたかったのは単に「お金をくれ」ということじゃなく、「オレみたいな選手が公傷扱いになれるよう、制度として導入しろ」に近いものだったのだろう。しかし、スポーツは身体を使う仕事であり、言い出すとどんなものでも公傷になってしまう。球団はよほどのことがない限り、ケガを「公傷」とは認められないのが現状だ。公傷制度を訴えるなら、一つの球団に訴えるより、選手会を通じて連盟に訴えるなど、他に方法があったのではないか。「退団」をちらつかせてまで公傷を訴えたノリだが、まさか本当に退団になってしまうとは、彼自身も予想外だったろう。
彼は「お金じゃない」と言った。では何なのか。この発言は、選手生命が絶たれかねない状況での“苦しまぎれの一言”だったのだろう。公傷とは労災保険みたいなものであり、結局は「お金である」である。お金でもめて退団した彼が、それでも「お金じゃない」と言うのは正直よくわからない。ノリがもし、「公傷を認める球団にしか入団しない」というスタンスだったならよく分かる。しかし、彼はそうではなかった。果たして中日ドラゴンズは、昨年のノリような事例に対し「公傷」を認めるだろうか。ノリがオリックスを退団した理由と、中日に入団した理由は、全くリンクしていない。彼の支配下選手登録が、他の中日選手に悪影響を与えないことを祈る。
もめた原因は左手首故障の「公傷扱い」にある。昨年オリックスに入団したノリだが、春先からケガの連続だった。開幕前の右足肉離れに始まり、左手親指の捻挫、古傷である左手首の故障、さらには右手首の故障。散々なシーズンを送っていた。本来なら治療に専念したいところだったが、チームの戦力不足から彼はケガを押して試合に出場。それもむなしく、チームは5位と低迷。ノリ自身の成績も振るわず、打率.232、12本塁打と期待を大きく裏切った。
そのオフ、彼は契約更改で「公傷」というものを球団に訴えた。『ケガしてたのに試合に頑張って出続けた。だから給料のダウン幅をもうちょっと少なくしてほしい』という訴えである。しかしオリックスはそれを認めず、交渉は決裂。トレード先を探すも、相手が見つからず断念。最終的にノリは自由契約となったのである。
そもそも公傷制度というものは、プロ野球全体の制度という形では存在せず、各球団の裁量に任されているのが現状だ。例えば、ロッテは公傷自体を認めていない。しかしその一方、巨人の高橋由伸選手は公傷を3度も認められている。オリックスの平野恵一選手はフェンスに激突してまでボールを追い、全身打撲の大ケガを負ったが、公傷は認められなかった。このように、球団によって甘い公傷認定もあれば、平野のような厳しい査定まで存在するのだ。
中村紀洋の場合、争点となった左手首のケガは昔からの古傷。死球により悪化したとはいえ、自己責任の部分も大きい。プロスポーツの世界には古傷なんて誰にでもあるもので、それが悪化したからといって球団に公傷を訴えるべきではない。元近鉄の監督で野球解説者の鈴木啓示氏も「『無事是名馬』で、優れた選手は故障に強い。中村には成績不振をケガのせいにし、公傷にしてくれとは言ってほしくなかった」と苦言を呈している。故障はしっかりと治してからシーズンを迎えるのがプロとしての責任。それは以前、彼自身の口からもよく聞こえた言葉だった。
彼が球団に言いたかったのは単に「お金をくれ」ということじゃなく、「オレみたいな選手が公傷扱いになれるよう、制度として導入しろ」に近いものだったのだろう。しかし、スポーツは身体を使う仕事であり、言い出すとどんなものでも公傷になってしまう。球団はよほどのことがない限り、ケガを「公傷」とは認められないのが現状だ。公傷制度を訴えるなら、一つの球団に訴えるより、選手会を通じて連盟に訴えるなど、他に方法があったのではないか。「退団」をちらつかせてまで公傷を訴えたノリだが、まさか本当に退団になってしまうとは、彼自身も予想外だったろう。
彼は「お金じゃない」と言った。では何なのか。この発言は、選手生命が絶たれかねない状況での“苦しまぎれの一言”だったのだろう。公傷とは労災保険みたいなものであり、結局は「お金である」である。お金でもめて退団した彼が、それでも「お金じゃない」と言うのは正直よくわからない。ノリがもし、「公傷を認める球団にしか入団しない」というスタンスだったならよく分かる。しかし、彼はそうではなかった。果たして中日ドラゴンズは、昨年のノリような事例に対し「公傷」を認めるだろうか。ノリがオリックスを退団した理由と、中日に入団した理由は、全くリンクしていない。彼の支配下選手登録が、他の中日選手に悪影響を与えないことを祈る。
2007-03.21 Wedソーシャル・ネットワークの足音が聞こえる。[世の中]
Time[22:50] Comment[2] Trackback[0]
ソーシャル(社交的な)・ネットワークとはうまいこと言ったもんだ。ソーシャル・ネットワーキング・サービス『mixi(ミクシィ)』の会員はすでに800万人を超え、社会現象にまでなっている。同種のサイトは他にも多く存在し、もはやSNSはネット業界の“常識”となっている。このサイトがきっかけかどうかは知らないが、最近は“口コミ”という情報に信頼性を抱く人が多い。もはや一般人は、「高機能ですよ」「美味しいですよ」という広告だけでは動かない。人から人へ、その人自身の言葉で情報が流れる。これこそが信頼できる情報であり、ソーシャル(社交的)な情報収集方法だろう。この「ソーシャル」が、今後のコミュニケーションやビジネス、さらには社会のカギを握るとまで考える専門家もいるようだ。
mixiには「マイミク」と呼ばれる“繋がり”を結ぶ機能がある。誰かが誰かに申し入れを行い、承認されると“お友達”としてプロフィール上にその人が表示される。小・中・高時代の旧友、大学での仲間、会社の同僚、趣味の仲間、または恋人や家族、さらにはネット上で知り合った友達までもが一斉に存在し、まるで“自分のための同窓会”が行われているよう。本来なら何の接点も持たない人たちが、空間を超えて一つのページ上に顔を揃える。これぞ、Web上でしか実現できないソーシャル・ネットワークだ。
しかし、このような非現実的なコミュニケーションに異論を唱える人も少なくない。「コミュニケーションとは実際に人と話してこそ成り立つもの」。それは確かにその通り。だが、時代が変わればコミュニケーションの形も変わるということも忘れてはならない。かつて、パソコンでのメールが普及し始めた頃、「こんなもので人の心が伝えられるか」「人間のコミュニケーション能力を低下させる」などと非難する声が多くあった。しかしどうだろう、現在の社会において、メールはビジネス・人間関係・情報収集などあらゆる舞台で使われ、もはや人々の生活欠かせないツールとなっている。当時批判していた人も、今や自然にメールを使って生活していることだろう。
コミュニケーションにも“時代”がある。しかし世の中には、価値観が固まってしまい、物事における柔軟な意識改革ができない大人も多くいる。そんな人たちが、揃って「新たな時代」の誕生を批判する。一方、価値観の固まっていない若者は、この手のツールを見事なまでに柔軟に受け入れ、驚異的なスピードで我がものにしていく。大人たちが「最近の若い人は・・・」と若者を批判する原因の一つは、柔軟さの欠如が大人たちにあるのではないだろうか。
リアルな人間関係をいかにネット上に取り込むのか。ソーシャル・ネットワークには個人情報の問題など、課題がまだまだたくさんある。だが恐らくこのソーシャル・ネットワークも、いずれはコミュニケーションツールの一つとして世の中に溶け込んでいくだろう。そしていつかのメールのように、反対論者も何食わぬ顔で使っていくことだろう。まあ、それがmixiなのかは別として。
mixiには「マイミク」と呼ばれる“繋がり”を結ぶ機能がある。誰かが誰かに申し入れを行い、承認されると“お友達”としてプロフィール上にその人が表示される。小・中・高時代の旧友、大学での仲間、会社の同僚、趣味の仲間、または恋人や家族、さらにはネット上で知り合った友達までもが一斉に存在し、まるで“自分のための同窓会”が行われているよう。本来なら何の接点も持たない人たちが、空間を超えて一つのページ上に顔を揃える。これぞ、Web上でしか実現できないソーシャル・ネットワークだ。
しかし、このような非現実的なコミュニケーションに異論を唱える人も少なくない。「コミュニケーションとは実際に人と話してこそ成り立つもの」。それは確かにその通り。だが、時代が変わればコミュニケーションの形も変わるということも忘れてはならない。かつて、パソコンでのメールが普及し始めた頃、「こんなもので人の心が伝えられるか」「人間のコミュニケーション能力を低下させる」などと非難する声が多くあった。しかしどうだろう、現在の社会において、メールはビジネス・人間関係・情報収集などあらゆる舞台で使われ、もはや人々の生活欠かせないツールとなっている。当時批判していた人も、今や自然にメールを使って生活していることだろう。
コミュニケーションにも“時代”がある。しかし世の中には、価値観が固まってしまい、物事における柔軟な意識改革ができない大人も多くいる。そんな人たちが、揃って「新たな時代」の誕生を批判する。一方、価値観の固まっていない若者は、この手のツールを見事なまでに柔軟に受け入れ、驚異的なスピードで我がものにしていく。大人たちが「最近の若い人は・・・」と若者を批判する原因の一つは、柔軟さの欠如が大人たちにあるのではないだろうか。
リアルな人間関係をいかにネット上に取り込むのか。ソーシャル・ネットワークには個人情報の問題など、課題がまだまだたくさんある。だが恐らくこのソーシャル・ネットワークも、いずれはコミュニケーションツールの一つとして世の中に溶け込んでいくだろう。そしていつかのメールのように、反対論者も何食わぬ顔で使っていくことだろう。まあ、それがmixiなのかは別として。
2007-03.19 Mon堀江貴文だけじゃない。[世の中]
Time[06:43] Comment[0] Trackback[0]
3月16日、ライブドアの前社長である堀江貴文被告に対し、東京地裁は証券取引法違反の罪で懲役2年6ヶ月の判決を言い渡した。堀江被告は直ちに控訴し、今後は高裁の場で争われることとなった。実刑という厳しい判決のウラには、社会に与えた影響や、手っ取り早く儲けようという世の中に蔓延りがちな価値観のようなものを戒める意味も込められていたのだろう。
その日の夜、ホリエモンはテレビ朝日系『報道ステーション』に出演していた。そして立て続けにTBS系『筑紫哲也のNEWS23』にも出演。控訴中とはいえ、民放各局は実刑判決を受けた“犯罪者”をテレビ出演させた。番組内でホリエモンは「判決には納得がいかない」「裁判官も“ちょっとずるいよね”的なニュアンスで有罪にした」などと不満を連発していた。
殺人だろうが粉飾決算だろうが、犯罪者であることに変わりはなく、「罪を犯した」という意味では同じである。テレビ局側があえて犯罪者に主張する場を与え、その声を全国の視聴者に届ける必要はどこにあるのだろう。反論があるなら裁判で主張すればいい。極端に言えば、これではまるでテレビ局側が「堀江さんは無実かもしれないです」と言っているかのように見えてしまう。
堀江被告は18日の『サンデープロジェクト』にも出演していたらしい。他の出演者からかなり厳しいことを言われていたみたいだが、やはり主張の場を与えたことには変わりない。16日の出演もそうなのだが、この出演でテレビ局は堀江被告に“ギャラ”を支払っていることになる。どの程度の金額かは知らないが、金儲けをしようとして逮捕された犯罪者にギャラを払ってまで主張の場を与えるとは、テレビ界も廃れたものだ。
このウラにあるのは、ご存じの通り視聴率。テレビ各局の「視聴率のためなら何でもする」という悪しき伝統意識が、堀江被告の出演を推したのだろう。『発掘!あるある大事典2』をはじめとするここ最近の捏造問題も、この伝統意識が“犯人”である。発覚した「やらせ」はあくまでも氷山の一角で、「演出」「味付け」と称する“ウソ”は、星の数ほどあるに違いない。それも、結局は金儲けのため。もちろんその中には様々な思いがあるのだろうが、やっていることはホリエモンと同じだ。堀江被告が逮捕された時、揃ってテレビ局は彼を批判した。しかし堀江被告が有罪判決になると、テレビ局は彼に主張する場を与えた。まさに「カネのためなら何でもする」である。
真実を伝える役目であるテレビ局がいま、堀江被告と同じように、ラクをして、さらにはウソをついてまでカネを儲けようとしている。時には犯罪者を出演させ、時には番組を粉飾させ、“視聴率”という名の「カネと名誉」を得ようとしている。堀江氏があるとき言った「国民は馬鹿だから」という言葉は、いまやテレビ局からの言葉になっているのかもしれない。
その日の夜、ホリエモンはテレビ朝日系『報道ステーション』に出演していた。そして立て続けにTBS系『筑紫哲也のNEWS23』にも出演。控訴中とはいえ、民放各局は実刑判決を受けた“犯罪者”をテレビ出演させた。番組内でホリエモンは「判決には納得がいかない」「裁判官も“ちょっとずるいよね”的なニュアンスで有罪にした」などと不満を連発していた。
殺人だろうが粉飾決算だろうが、犯罪者であることに変わりはなく、「罪を犯した」という意味では同じである。テレビ局側があえて犯罪者に主張する場を与え、その声を全国の視聴者に届ける必要はどこにあるのだろう。反論があるなら裁判で主張すればいい。極端に言えば、これではまるでテレビ局側が「堀江さんは無実かもしれないです」と言っているかのように見えてしまう。
堀江被告は18日の『サンデープロジェクト』にも出演していたらしい。他の出演者からかなり厳しいことを言われていたみたいだが、やはり主張の場を与えたことには変わりない。16日の出演もそうなのだが、この出演でテレビ局は堀江被告に“ギャラ”を支払っていることになる。どの程度の金額かは知らないが、金儲けをしようとして逮捕された犯罪者にギャラを払ってまで主張の場を与えるとは、テレビ界も廃れたものだ。
このウラにあるのは、ご存じの通り視聴率。テレビ各局の「視聴率のためなら何でもする」という悪しき伝統意識が、堀江被告の出演を推したのだろう。『発掘!あるある大事典2』をはじめとするここ最近の捏造問題も、この伝統意識が“犯人”である。発覚した「やらせ」はあくまでも氷山の一角で、「演出」「味付け」と称する“ウソ”は、星の数ほどあるに違いない。それも、結局は金儲けのため。もちろんその中には様々な思いがあるのだろうが、やっていることはホリエモンと同じだ。堀江被告が逮捕された時、揃ってテレビ局は彼を批判した。しかし堀江被告が有罪判決になると、テレビ局は彼に主張する場を与えた。まさに「カネのためなら何でもする」である。
真実を伝える役目であるテレビ局がいま、堀江被告と同じように、ラクをして、さらにはウソをついてまでカネを儲けようとしている。時には犯罪者を出演させ、時には番組を粉飾させ、“視聴率”という名の「カネと名誉」を得ようとしている。堀江氏があるとき言った「国民は馬鹿だから」という言葉は、いまやテレビ局からの言葉になっているのかもしれない。
2007-03.14 Wed勝手に映画批評14[映画]
Time[19:29] Comment[2] Trackback[18]
【さくらん】 2点
申し訳ないですが、全くおもしろくなかった。いくら写真家として実績があっても、親父が超有名映画監督でも、それだけですばらしい映画が撮れるとは限らないですね。正直、ある意味ホッとしました。やっぱ映画は中身。色彩や映像、音楽が良ければいいってもんじゃないですよ。
確かに、ビジュアルにはかなり力を入れていて、赤を基調とした世界には独特の雰囲気が漂っていました。蜷川実花さんの写真を何枚か見ましたが、いかにも彼女が好きそうなテイスト。ちょっとギラギラしていてうるさかったけど、そこが彼女の良さでもあるんでしょうね。でも、僕は北野武の『Dolls』の方がすばらしい色彩だったと思います。
ストーリーと脚本は言い出すとキリがない内容。前半、あれだけ花魁の世界を描くことに徹していたのに、後半は急にベタなラブストーリーに突入。椎名桔平が登場してからちょっとヤバい雰囲気が漂いだして、まさかの“そのまんま”な展開。ここまでとは思わなかった。逆に「ウソん!?」って思いましたもん。
各俳優陣の演技っぷりに感じる“時代感”がめちゃくちゃで、違和感たっぷりでした。印象ですが、みんな前半は頑張って時代感のあるセリフを使おうとしてたのに、後半は息切れしてフツーの現代人に戻っちゃってた気がする。後半なんてただの現代の恋愛ドラマやった。退屈やった・・・。土屋アンナなんて“素”でしたやん。あれ、演技って言うんですかね?多少は狙った演技なんでしょうけど・・・まあ、あれが売りの女優なんでしょうから、何とも言えないです。
あと疑問なのが、主人公が花魁としてNo.1に登りつめられたのはなぜなんでしょう?遊郭に来た客がそろって絶賛する理由が、僕にはよくわからなかった。特に飛び抜けて美しいわけでもなく、ナイスバディでもなく、サービスがすばらしいわけでもなく・・・。なんか、出来上がってるストーリーのような感じがして、あまり入っていけなかった。この映画で言えるのは、木村佳乃と菅野美穂の体当たりっぷりにびっくりしたってことだけですね。
【マリー・アントワネット】 4点
これは歴史映画では全くなく、「どこにでもいるような一人の女性の生き様」を描こうとした映画でした。ファッションやグルメを楽しむ女性は中世ヨーロッパでも現代でも同じで、跡継ぎづくりのために四苦八苦する姿や、ダンナに満足できなくなって遊び出す姿など、徹底的にマリー・アントワネットを人間的に描こうとしていました。
しかし、いかんせん、それが表現できていなかった。マリーの性格や心の奥底に秘めた想いが全く見えず、“人間味”がマリー・アントワネットに感じられなかった。ひと言で言えば、キャラが定まっていなかった気がします。ポップで天真爛漫な女性を描きたかったんでしょうけど、脚本が悪かったのか、キルスティン・ダンストには荷が重かったのか、全くダメでした。この女優はスパイダーマンのヒロインの人らしいですね。ぜんぜん魅力的じゃないと思います。オーラも容姿もぜんぶ。スパイダーマンの頃なんかもっとヒドかったですよ。
この映画は歴史的背景を排除させるのが(たぶん)狙いだったとはいえ、ラストシーンはかなりひどかった。どう考えてもギロチン処刑を描くべきだったのに、中途半端すぎる終わり方で最悪でした。実際に処刑される前にマリーが言った言葉なんて、映画のラストシーンにはもってこいの言葉。なのにどうしてそれを使わなかったんでしょう。もったいない。別の意図があるんなら聞きたいもんです。僕なら、マリーが死ぬ直前に放ったあの言葉で映画を締めくくります。ギロチン処刑の瞬間までは映さず、最期の言葉が放たれた瞬間にエンドロールです。その方が絶対いいでしょう。あと、あのBGM、なんだありゃ。あれがソフィアコッポラっぽさらしいんですが、ちょっと僕にはついていけませんでした。
映画のほとんどが宮廷のなかでのシーンで、貧困にあえぐフランスの群衆が登場したのは最後の襲撃事件のシーンくらいだったのは良かった。この映画はあくまでもマリー・アントワネット目線にさせるべきなので、閉ざされた宮廷生活を演出するこの表現で良かったですね。
【それでもボクはやってない】 8点
裁判の傍聴はしたことないですけど、かなりリアルな映画だったような気がする。淡々と進む裁判のなかに、焦りやいらだちが入り交じっていて、容疑者にさせられた主人公の気持ちがよく伝わってきました。日本における司法の構造的問題をバッサリと切っており、主人公でも裁判官でも弁護士でもない“誰か”からのメッセージが存在しているような気がしました。まあ、それは監督である周防正行氏その人なんでしょうね。
役所広司、加瀬亮の演技が特に良かったです。加瀬亮の演技ははじめて見たんですが、こんなにいい役者とは知らなかった。偶然この役がハマリ役だったこともあるんでしょうが、なかなかの演技派っぷりにびっくりしました。長時間の映画なのに長く感じなかったのは、ストーリー・脚本以外にも役者の演技があったからだと思います。この映画は3つとも良かった。シーンとした映画館が妙に心地よかったです。
エンタテインメント性は全くないドキュメンタリー系の映画なので、人によってはしんどい映画でもあるでしょう。でも検察官と弁護士、裁判官の弁論対決や、判決が言い渡されるまでのプロセスなど、もはやこれはエンタテインメントと呼んでもいいものだと思います。傍聴マニアの気持ちも少しは理解できました。裁判長が急に交代したことや、判決基準の裏話など、裁判におけるもどかしい実態を打ち出し、勉強になる部分も多くありました。映画に限らず、この映画みたいに何かの実態を知り学ぶことができるものって大切ですよね。映画ってこういうものが少ないんで、貴重だと思います。しかも打ち出し方が自然で違和感がなく、いち傍聴人になってスクリーンの中に入ることができました。あまりない、一風変わった映画です。他にも日本映画で冤罪告発映画は何本かあるらしいので、これを機会に観てみようかと思います。
申し訳ないですが、全くおもしろくなかった。いくら写真家として実績があっても、親父が超有名映画監督でも、それだけですばらしい映画が撮れるとは限らないですね。正直、ある意味ホッとしました。やっぱ映画は中身。色彩や映像、音楽が良ければいいってもんじゃないですよ。
確かに、ビジュアルにはかなり力を入れていて、赤を基調とした世界には独特の雰囲気が漂っていました。蜷川実花さんの写真を何枚か見ましたが、いかにも彼女が好きそうなテイスト。ちょっとギラギラしていてうるさかったけど、そこが彼女の良さでもあるんでしょうね。でも、僕は北野武の『Dolls』の方がすばらしい色彩だったと思います。
ストーリーと脚本は言い出すとキリがない内容。前半、あれだけ花魁の世界を描くことに徹していたのに、後半は急にベタなラブストーリーに突入。椎名桔平が登場してからちょっとヤバい雰囲気が漂いだして、まさかの“そのまんま”な展開。ここまでとは思わなかった。逆に「ウソん!?」って思いましたもん。
各俳優陣の演技っぷりに感じる“時代感”がめちゃくちゃで、違和感たっぷりでした。印象ですが、みんな前半は頑張って時代感のあるセリフを使おうとしてたのに、後半は息切れしてフツーの現代人に戻っちゃってた気がする。後半なんてただの現代の恋愛ドラマやった。退屈やった・・・。土屋アンナなんて“素”でしたやん。あれ、演技って言うんですかね?多少は狙った演技なんでしょうけど・・・まあ、あれが売りの女優なんでしょうから、何とも言えないです。
あと疑問なのが、主人公が花魁としてNo.1に登りつめられたのはなぜなんでしょう?遊郭に来た客がそろって絶賛する理由が、僕にはよくわからなかった。特に飛び抜けて美しいわけでもなく、ナイスバディでもなく、サービスがすばらしいわけでもなく・・・。なんか、出来上がってるストーリーのような感じがして、あまり入っていけなかった。この映画で言えるのは、木村佳乃と菅野美穂の体当たりっぷりにびっくりしたってことだけですね。
【マリー・アントワネット】 4点
これは歴史映画では全くなく、「どこにでもいるような一人の女性の生き様」を描こうとした映画でした。ファッションやグルメを楽しむ女性は中世ヨーロッパでも現代でも同じで、跡継ぎづくりのために四苦八苦する姿や、ダンナに満足できなくなって遊び出す姿など、徹底的にマリー・アントワネットを人間的に描こうとしていました。
しかし、いかんせん、それが表現できていなかった。マリーの性格や心の奥底に秘めた想いが全く見えず、“人間味”がマリー・アントワネットに感じられなかった。ひと言で言えば、キャラが定まっていなかった気がします。ポップで天真爛漫な女性を描きたかったんでしょうけど、脚本が悪かったのか、キルスティン・ダンストには荷が重かったのか、全くダメでした。この女優はスパイダーマンのヒロインの人らしいですね。ぜんぜん魅力的じゃないと思います。オーラも容姿もぜんぶ。スパイダーマンの頃なんかもっとヒドかったですよ。
この映画は歴史的背景を排除させるのが(たぶん)狙いだったとはいえ、ラストシーンはかなりひどかった。どう考えてもギロチン処刑を描くべきだったのに、中途半端すぎる終わり方で最悪でした。実際に処刑される前にマリーが言った言葉なんて、映画のラストシーンにはもってこいの言葉。なのにどうしてそれを使わなかったんでしょう。もったいない。別の意図があるんなら聞きたいもんです。僕なら、マリーが死ぬ直前に放ったあの言葉で映画を締めくくります。ギロチン処刑の瞬間までは映さず、最期の言葉が放たれた瞬間にエンドロールです。その方が絶対いいでしょう。あと、あのBGM、なんだありゃ。あれがソフィアコッポラっぽさらしいんですが、ちょっと僕にはついていけませんでした。
映画のほとんどが宮廷のなかでのシーンで、貧困にあえぐフランスの群衆が登場したのは最後の襲撃事件のシーンくらいだったのは良かった。この映画はあくまでもマリー・アントワネット目線にさせるべきなので、閉ざされた宮廷生活を演出するこの表現で良かったですね。
【それでもボクはやってない】 8点
裁判の傍聴はしたことないですけど、かなりリアルな映画だったような気がする。淡々と進む裁判のなかに、焦りやいらだちが入り交じっていて、容疑者にさせられた主人公の気持ちがよく伝わってきました。日本における司法の構造的問題をバッサリと切っており、主人公でも裁判官でも弁護士でもない“誰か”からのメッセージが存在しているような気がしました。まあ、それは監督である周防正行氏その人なんでしょうね。
役所広司、加瀬亮の演技が特に良かったです。加瀬亮の演技ははじめて見たんですが、こんなにいい役者とは知らなかった。偶然この役がハマリ役だったこともあるんでしょうが、なかなかの演技派っぷりにびっくりしました。長時間の映画なのに長く感じなかったのは、ストーリー・脚本以外にも役者の演技があったからだと思います。この映画は3つとも良かった。シーンとした映画館が妙に心地よかったです。
エンタテインメント性は全くないドキュメンタリー系の映画なので、人によってはしんどい映画でもあるでしょう。でも検察官と弁護士、裁判官の弁論対決や、判決が言い渡されるまでのプロセスなど、もはやこれはエンタテインメントと呼んでもいいものだと思います。傍聴マニアの気持ちも少しは理解できました。裁判長が急に交代したことや、判決基準の裏話など、裁判におけるもどかしい実態を打ち出し、勉強になる部分も多くありました。映画に限らず、この映画みたいに何かの実態を知り学ぶことができるものって大切ですよね。映画ってこういうものが少ないんで、貴重だと思います。しかも打ち出し方が自然で違和感がなく、いち傍聴人になってスクリーンの中に入ることができました。あまりない、一風変わった映画です。他にも日本映画で冤罪告発映画は何本かあるらしいので、これを機会に観てみようかと思います。