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特に理由もなく、一つのことを頭の中で深く考えてみる。こんなことは恐らく、誰でも一度は経験したことがあるだろう。僕は昔から、ふとした瞬間に「死んだらどうなるんやろ?」ってことを特に理由もなく考えてみることがあった。まあ、年に1~2回くらい。それも2~3分くらいの間だけ。特に最近は、相次ぐテロや自然災害、阪神大震災やJRの脱線事故など、いつ自分が犠牲になるかわからない事故や事件が身近にも起こり、「死ぬ」ということを以前よりリアルに感じてしまうようになった。もちろん、僕に自殺願望があるわけでもなければ、殺人事件を起こしたいわけでもない。単純に、「死ぬ」ということが理解できないのだ。そんなことを一瞬ではあるが深く考えていると、だんだん訳がわからなくなってくる。

人間が死んだら、恐らく何も残らないと思う。記憶も、考えも、もちろん肉体も。僕は今まで死んだことがないのだから、もちろん「たぶん」としか言えないが。この世の中には様々な宗教があり、それぞれが「死」について独自の考えを示しているが、僕がさっき書いた考え方をしている宗教はほとんど無い。宗教とは本来、自らの存在と自らの理想とする正しい人間像の基準を教えるための活動や運動のことであって、「死んだら何も残らない」なんて考えは、現実的ではあっても理想的ではないのだろう。生きること(=死に近づくこと)は、あくまでも前向きなことであると信じたいのだ。まあ、それは僕も同じ。

エホバの証人の考え方は、僕の考えとなかなか近かった。「死は完全な無意識の状態である」「生きている者は自分が死ぬことを知っている。しかし、死んだ者には何の意識もない」「人が死ぬと、その霊は出て行き、彼は自分の地面に帰る。その日に彼の考えは滅びうせる」 霊がどうのこうのの部分は微妙だが、この考えは単純で現実味がある。この考えを信じたいというわけではなく、実際どうなのかと考えた時、この考えが近いような気がする。死んだ時点でその人は物事を考えられなくなるし、肉体を動かすことができなくなる。そしてそれ以前に、永遠に意識がない状態になる。「人は死んでも魂として永遠に生き続ける」という考え方をたまに聞くが、それはどうだろう。確かに、魂になって自由に生き続けるのはなかなか新鮮で経験してみたいが、現実的ではない気がする。特に僕は、いわゆる「霊感」のようなものが全くなく、そのようなものを信じていないからだ。

僕が子どもの頃は、仏教の輪廻転生を信じていた。いや、というよりも、それが当たり前のことだと思っていた。人は死ぬと、数日以内に何かに生まれ変わる。しかし生まれ変わった時、その前の自分の記憶や考えは全て消えてしまう。・・・確か、こんな感じの内容だったはず。すなわち、何もかもリセットして新しい自分に変わるのだ。この考えは、「死んでも自分は生き続ける」という意味では、まあまあ希望があるように思える。しかしこれは、実はとても残酷なことだと僕は思う。死ぬまでに経験した素晴らしい思い出や考えが、死んだ瞬間にゼロになってしまうのだ。人生とは、どれだけ素晴らしい思い出をつくり、どれだけ素晴らしい経験をしたかが大切だと思う。しかしその素晴らしい思い出や記憶が、「生まれ変わる」ということのために、一瞬でリセットされるのだ。「生まれ変わった自分」といっても、記憶も意識も体も何もかもリセットされるのだから、言ってみればまるっきり“違う人間”。では何をもって「自分」と言うのだろう・・・?もう、わけがわからなくなる。こんなことなら、魂となって彷徨う形でもいいから、自分という人間をそのままにしておいてくれ、とさえ思ってしまう。せっかくの記憶や考えを全て消してしまうのは、ちょっと悲しすぎる。

「生まれたのも自分の意思じゃないし、死も普通に死ぬのは意思じゃない。突然やってくる、どっちもね。ああ、詩の荘だって言ってるときは、まだ生きてるし、あっ、死んだというときは、死んじゃってる。つまり死には現在形がないんだ。だから、ああ、俺も死んじゃうのかなあと思って生きてるうちにいつのまにか自分で気付かないうちに死んじゃってるんじゃないの。だから、本人には死はないんじゃないの。僕は、死ぬまでは、精いっぱい生きてようと思ってる。まあ、生きてるのがいいと思うよ。だったら楽しく、おもしろく、よりよくね。ヒトにやさしくね。ヒトに良くすると自分に良いことが起るし、自分に浴するとヒトにも良くすることになるしね。僕は、毎日喜んで生きてるよ。」

この言葉は、どっかのサイトで見つけたある画伯の言葉。いい考えだと思う。死んだ後のことをいくら考えても、結局は死んだ後の苦しみなんて何も感じない。だったら、何かを感じられるとき(=生きてるとき)にいっぱい楽しいことをしようってこと。この言葉を読むと、なんか気持ちの構造が単純になるような気がする。何事も、難しく突き詰めて考えていくと、最終的には単純な考えに落ち着くものなのかも知れない。

2005.10.04 | 戯言 | トラックバック(0) | コメント(8) |

NASAから官邸に緊急連絡が入る。
明後日、長径約2キロの小惑星が地球に衝突するとのことだ。
人類の大半が死亡するのは間違いないらしく、地球滅亡の恐れすらあるらしい。
小惑星が迫っていることは以前から知っていたが、衝突の可能性は低いと聞いていた。
しかしここ数日で軌道が大幅に変わったそうだ。
私はすぐに状況を飲み込むことができず、数分間は他人事のように思えてしまった。
しかし総理大臣という立場上、無理にでも頭を整理し、各方面に連絡を入れた。

天皇陛下へももちろん連絡を入れる。
陛下は既に別ルートから状況をお知りになっており、
私は今後の対応についてのご相談をした。
陛下は「最期は我が日本がひとつになれるよう、国民全員で同じ夕食を食べましょう
とお話しになり、さらにこう続けた。
「具体的に何を食べるのかは、総理大臣のあなたが各方面と相談して決めてください」

国民に発表するのは明日の朝。
それまでに「明日の夕食の献立」を考えなければならない。
今まで掲げてきた公約も、もう守る意味がなくなった。
総理大臣としての最後の仕事がまさか「明日の晩メシ」とは…。
こんなこと誰も予想しなかっただろう。

早速、私は「明日の晩メシ」を考える。
この際、農業や産業への影響は考えなくて良いだろう。なんせ、地球が滅亡するのだから。では何を基準に考えたらよいだろうか。日本人が好きな食べ物といえば、ラーメン、寿司、焼肉などと言われているが、最後の日に“中華そば”もどうかと思うし、魚介類がダメな人も多いと聞く。では焼肉がベターか。しかし考えてみると、明日死ぬと分かっている人にそんな重い料理がのどを通るだろうか?その視点で考えると、のどを通りやすい汁ものが良いだろう。陛下からのお達しということもあるので、和食であることも重要だ。まさか日本国民全員が、最期の日にインドカレーやナシゴレンを食べるなんてありえない。また、最期の日は家族全員で食事をすることになるだろうから、大勢で囲める料理であるべきことも忘れてはならない。好き嫌いも考慮して、様々な種類の食材を使う料理であることもポイントだ。

条件は多い。
整理するとこうなった。

(1)汁もの
(2)和食
(3)家族で囲める料理
(4)様々な種類の食べ物が入っている料理


答えは出た。
私は次の日、国民への演説に向かう。
深い悲しみに包まれた中、演説の最後に私は笑顔でこう話す。

「国民の皆さん、今日は愛する家族とすき焼きを食べましょう!
これが日本の最期の晩餐です!さようなら!」

2005.06.15 | 戯言 | トラックバック(0) | コメント(4) |

世界の三大美女とは一般的に、クレオパトラ(エジプト)・楊貴妃(中国)・小野小町(日本)です。これは恐らく誰でも知っていることでしょうが、実はこれ、日本だけで言われている三人なのです。世界的な世界三大美女は、クレオパトラ(エジプト)・楊貴妃(中国)・ヘレネ(古代ギリシャ)。日本人がいつの間にか勝手に小野小町とヘレネを交換して伝えていただけのことです。僕は今まで小野小町が世界三大美女に選ばれていると思って、「さすが日本の女性は美しい」と心の中でほんの少し思っていました。でも何かこれを聞くと、そんな自分が馬鹿らしくなりました。

そうは思ったものの、やはり「日本の女性は美しい」、この気持ちは変わりません。僕は日本人以外の女性はあまり好みではありません(日本人っぽい韓国人・中国人は除く)。僕が日本で生まれ日本で育ったからかもしれませんが、黒髪でおしとやかで清潔そうな日本人は、客観的に見ても間違いなく美しいと思います。

そこで、今回は「世界に通用する日本三大美女」を選出したいと思います。
だた単に好みの女性を選ぶのではなく、できるだけ客観的な視点で三人を選びたいと思います。「美人」であることが大前提ですが、日本を代表することになるので少々の基準を加えます。ちなみに現在いる美人だけでなく、過去にいた美人でもOKとします。でも50年前にいた美人なんて知るはずもないので、僕の知る人の中からの選出になります。
選出する基準は以下の通り。

一、和服・黒髪の似合う女性
一、名前が美しい女性
一、過去の辛い経験やスキャンダルを乗り越えた女性


一つ目は日本人なので当然の項目。別に現在が金髪でも、似合いそうならOK。二つ目は僕が密かに信じている「名は体を表す」のことわざからきています。僕の今までの経験上、このことわざは絶対に正しいのです。詳細は語りませんが。そして三つ目ですが、辛い経験を乗り越えた女性は「心の美しさ」を人一倍持っているはずです。ルックスだけ美しければそれで「美女」という訳にはいきません。このような女性は、見た目では分からない何か強い力を持っているような気がします。オーラというか何と言うか…。見えない魅力が出ている様に思えます。

以上の基準で三人を選びます。しかし全てを満たし、なおかつ大前提の「美人」である人など恐らくほとんどいないでしょう。なのでこの基準はあくまでも参考程度の基準。そこはご了承ください。かなり悩みましたが、これこそ僕が選ぶ「日本の3大美女」。揺るぎない三人だと思います。

・小雪さん

・宮沢りえさん

・黒木瞳さん

20代、30代、40代からそれぞれ一人ずつの選出になったのは偶然です。
次点としては仲間由紀恵さん、長谷川京子さんを挙げさせていただきます。
以上、超ヒマ人のような文でございました。

ちなみにGlobalBeauties.comでは世界美人国ランキングなるものが発表され、
日本は80国中22位。1位はベネズエラでした。
…う~ん、美人とは奥が深いものだ。

2005.05.28 | 戯言 | トラックバック(3) | コメント(8) |

僕は傘が嫌いです。心の底から嫌いです。
できることなら今後一切持ちたくないと思っています。でも雨が嫌いというわけではありません。雨の日は落ち着くのでどちらかというと好きです。では何故これほど傘が嫌いなのか?理由を自分なりに考えてみたところ、以下のようなことが挙げられました。

1)傘を持った日に限って雨が降らない
最近の天気予報は何故こんなに当たらないのでしょうか。気象予報士が悪いのか、最近の異常気象が悪いのか。原因はわかりません。朝のテレビで「今日は傘が必要ですよ~」などとカワイイ女の子が言っても、結局傘が必要になることはほとんどありません。なので僕は、降水確率が80%以上の時しか傘を持たないことにしています。今までそれでほとんど失敗していません。俺が天気を予報した方がエエんちゃうか?とさえ思います。

2)長さや形状が中途半端
これは大いに腹が立つ。例えば傘を持って電車の席に座ると、傘をどう持ったら良いのかわからなくなります。片手で持っていると本などが読みにくく、かといって腕に引っかけておくと隣の人や前に立っている人に当たる恐れがあります。席の端に座った時は、横に手すりがあるので、当然傘をそこに引っかけます。しかし手すりは右肩下がりの形状になっている(阪急電車の場合)ので、傘が徐々に前へ滑り落ちてきます。そして最終的には傘がバタンと倒れる。その時の音が意外に大きくてびっくりする。注目も浴びる。最悪です。傘の持つ部分はなぜ微妙に引っかけられる形状になっているんでしょう?あれは何を目的として作られたのでしょう?あれが中途半端に存在しているから、多様な使い方を人々は期待してしまうのです。そしてことごとく裏切られるのです。

3)周りが見にくく、片手がふさがる
大雨の中、傘を差しながらチャリンコに乗ったらエラいことになります。特に風が強い日。傘を前に傾けざるを得ない場合、そうすると前が見えません。前が見えないから傘を真上に差すと、モロに濡れます。どうしたらええねん。片手なのでバランスも取りにくく、少しの衝撃でも転びそうになります。一回だけ、台風の日に傘を差しながらカバンを手に持ちながら携帯電話で話しながらチャリンコに乗ったことがあります。…あれはキツかった。傘は応用が利かそうとすればするほど扱いにくくなります。

4)別に濡れてもいい(むしろ少し濡れた方が気持ちいい)
これまでのようなリスクを考えると、濡れた方がマシです。いや、というよりも多少濡れた方がスッキリして気持ちが良いです。たまに、降っているのか降っていないのかわからないくらいの雨でも傘を差している人がいますが、あれは何故なのでしょう?そんなに濡れたくないのには何か大きな理由があるのでしょうか?酸性雨アレルギーとか、数万円の傘なので使わないともったいないとか。少しの雨なら濡れた方が絶対気持ちいいです。濡れても数分後には乾きますし、何も損することはないと思います。こう思っているのは僕だけなのでしょうか?

以上の理由から、僕は傘が嫌いです。
では傘はこの世に不必要なのか?傘の本当の存在理由は何なのか?
それを考えた時、僕はある結論に辿り着きました。

傘の本当の存在理由、それはロマンスのためである。

例として2つご紹介します。
まず、傘の本来の使い方である「日傘」。といっても僕が日傘を差すというわけではありません。日傘は基本的には女性が差すもの。日焼けをして肌にダメージを与えないため、そして女性の魅力である白い肌を保つために差します。青い空の下、白い肌の女性が日傘を差して立つ姿は、この上なく美しいと思います。なんか、高貴で上品な雰囲気が漂い、日傘を差しているだけで女性としてのポイントがアップします。多少の個人的趣味が混ざっているのは承知しておりますが、日傘の似合う女性=美しい と言っても過言ではないはずです。

そしてもう一つが「相合い傘」。「相合い傘」という使い方は様々なドラマを呼び起こします。一つの傘の中に二人が入ると、イヤでも体が密着し、なんか個室で二人っきりになったような空間になります。あの雰囲気は独特なものがありますね。必ずと言っていいほど男側が傘を持ち、自分が濡れるのも構わずに女性へ傘を傾ける。小さい駆け引きの中に「やさしさ」や「恋心」が見え隠れします。何とも言えない甘酸っぱい感じ。この「相合い傘」の下、どれだけのドラマが始まったのでしょう。これはまさに傘が生んだ文化。大事にしたい文化です。

このような場合、傘はロマンスを彩る演出として大変大きな役割を担います。傘にもこんな美しい使い道があったのですね。結論として、傘は雨を防ぐためのものではなく、ロマンスを発生させるためのものだと僕は思います。

僕はそんな傘が大好きです。

2005.05.23 | 戯言 | トラックバック(1) | コメント(11) |

先日、親しい友人と飲みに行って、たまたま自殺の話題になった。
彼が「エツって、絶対に自殺なんかしなさそうやな」と言った。僕が「そんなん当たり前やん。みんな普通そうやろ?」と返すと、「自殺は人生の最終手段として考えてる。そう考えとかんと、思い切ったことがでけへん」と彼は答えた。そしてさらに、「たぶんこう考えてるのは俺以外にもいっぱいおるで」と続けた。

日本は5年連続で3万人以上の人が自殺している、世界有数の自殺大国。自殺未遂も含めると膨大な数に上るらしい。特に最近では、ネットでの集団自殺が多発しており、メディアで話題となっています。自殺の理由としては、人間関係のストレスや喪失体験、借金苦や心の病などがあるという。

人はなぜ自殺するんだろう。
自殺に関して完全な反対論者である僕は、その気持ちが全く理解できません。
自殺をする人はよく自分を美化させたような発言をしたり、そのような遺書を残したりします。しかし所詮自殺は苦しさから逃げてるだけであり、それを美化させることによって自分自身に「正当な自殺」であることを言い聞かせているに過ぎません。自殺に正当もクソもなく、結局は自分に与えられた壁を乗り越えられなかっただけ。自殺する人はその壁をたった一人で背負おうとしてしまい、人間社会で最も大切な「コミュニケーション」を自ら断ち切ってしまう不届き者です。そしてそれにより、周りの人間に一生消せない傷を与えてしまう、一種の加害者であるとも思います。「お前はそういう状況になったことがないから言えるんや」と言われるかもしれません。確かにそうです。しかし僕は、「壁は考え方で高くもなり、低くもなる」ものだと思っています。

ある方の意見にこんな興味深い言葉がありました。
「自殺やひきこもりやうつ病の本当の原因は血にあると思います。血といっても別に遺伝とかいう話ではありません。日常食べている食事のバランスが悪く細胞一個一個から元気がなくなっているため、少しのストレスにも負けてしまうと考えています。ためしにあなたが元気で元気でしかたのない時に自殺ができますか。家の中に何ヶ月もじっとしていられますか」
あくまで一つの例として、身体的ストレスにより細胞の元気がなくなれば、壁は高く見え、精神的ストレスを感じていきます。しかし食生活や日々の生活スタイルによって細胞を元気にさせると、生き方をプラスに考えることができ、壁が低く見えます。そこからの頑張りや方法は自分次第。まあ、あくまで一つの例ですが。

自殺することがプラスになることなど絶対にないと思います。
それは「周りの人への迷惑」という概念を排除し、自分のことだけを考えてもそうです。生きることは「経験すること」であり、その経験に満足できるかできないかが人生において重要だと僕は思います。もちろんその経験とは良いことだけとは限りません。良いことも悪いことも、全てひっくるめて「経験」です。そしてその経験を省みる瞬間が、「死ぬ時」なのだと思います。自殺する人は何か壁にぶつかっている状況。逆に言うと、それを乗り越えることは人生の経験において重要で素晴らしいことです。その壁から逃げ自殺することは、人生の経験値を高めるチャンスを自ら逃しているのです。そんな状況で「満足のいく経験をした」と胸を張って死ねますか?嫌なことも良いことも後から考えると良い経験だという考え方が、生きていく上で大切だと僕は思います。

こんなキレイ事を並べても、結局僕は今までそのような状況になったことがありません。だから説得性が低いのは仕方がないです。しかし一度くらいは「自殺したい」と思う状況を経験したい、と心の中でほんの少しだけ思います。なぜならそれも人生の価値を高める一つの経験だからです。でもその反面、そんな状況に今後なることは絶対にない、とも思います。それは今まで書いたような考え方があるからです。うーん…、難しい。

結論としては、自殺は絶対にプラスにはならない。しかし、自殺したが死にきれず、そこから立ち直った人は、本当に素晴らしい経験をしたと思います。それをきっかけに、ひとまわりもふたまわりも大きな人間になっていくのでしょう。

2005.04.22 | 戯言 | トラックバック(0) | コメント(7) |

お菓子や食品、ジュースなんかのパッケージに最近よく、「おいしさアップ!」とか「さらに美味しくなった!」みたいなキャッチコピーが入っています。あれを見るたびに買う意欲が萎える。あれは消費者を完全にナメてるとしか思われへん。

アホでもわかることですが、「おいしさ」とは人それぞれです。一体、誰感覚で「おいしさ」がアップしたんやろか。甘いのが好きなヤツもいたら、辛いんが好きなヤツもおるねん。百歩譲ってホンマにおいしくなったんやったら、何がどうなっておいしくなったんやろか。その詳細を書いてる企業が少なすぎる。

「今までは唐辛子の量を○○グラムにしていましたが、▲▲グラムにした方が美味しいと感じる人が多くいました(200人中187人)。しかし、これはあくまでも当社の実験であり、おいしさの感じ方は人によって違います」

これぐらいの注釈があれば、快く購入させていただきます。

ちなみに、「美味しさ」を感じる部分は味覚だけではなく、他に視覚・聴覚・臭覚・触覚があります。研究者によって重要視するウエイトは変わるらしいのですが、中には「視覚が80%を占める」という発表もあります。そうなると「おいしさアップ!」なんて表記してても、商品の見た目が変わってなかったらウソやん!っていうことになります。フランスなんかでは逆に、視覚は15%にすぎないと言っているらしいですが。

こんなことまで考えたら「おいしさアップ!」なんて表記できません。企業はどうせ、「消費者は細かいところまで考えてへんからええねん。こんなんフィーリングや。とりあえず表記しとこーぜ」的な考え方じゃないでしょうか。僕は実際、その表記があったものを食べて、「ホンマや、美味くなってる!」って思ったことがありません。全て、「変わってないやん」です。

仮に、僕感覚で美味しくなっていたとしよう。でも人によっては前の味が好きだった人も絶対いるでしょう。その時点で「おいしさアップ」はウソになります。でもその企業は罪になりません。なぜなら「美味しさ」とは人それぞれだからです。「まずくなってたぞ!ウソついたな!」と詰め寄られても、「ごめん、偶然ウチの社員は全員おいしいって感じてん。だからつい…」と言えば何も言えないでしょう。

ここまで長々と語ることでもないですね。

2005.01.26 | 戯言 | トラックバック(0) | コメント(0) |

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